浦和聖書バプテスト教会

1月, 2011年

《喜び歌う生活》

2011-01-30

  正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。  (詩篇33:1)

 つらい人生を「つらい。つらい。」と嘆きながら生きてゆくのもひとつの人生でしょう。しかし、同じようなつらさの中にあっても、喜び歌いながら生き貫く人生もあるのです。◇クリスチャン人生は、まさに、そういう人生です。神をほめたたえることが出来るからです。愛の神が、罪を赦し、永遠のいのちへ導いてくださったことを知っているからです。このかけがえのない祝福を知っていれば、地上の辛い事にもめげずにいられるのです。パウロという人は<今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。>(ローマ8:18)と告白しています。私たちも同じように考えたいものです。◇なかなかパウロのように考えられない現実を背負っているのが私たちです。しかし、この喜びと賛美の心を奪う理由はひとつしかないことを覚えねばなりません。つらい出来事ではないのです。著者が<正しい者たち。>と呼びかけ、<賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。>と語っていることに注意しなければなりません。喜びと賛美の心を奪うのは罪なのです。それ以外にありません。心が正しさを失い、ねじ曲がった人に、どうして聖い神様をほめたたえることが

出来るでしょう。かえって神の怒りを恐れて、魂はおびえていなければならないのです。◇私たちは、人々の心から神をほめたたえる喜びが日増しに失われていく原因をここに置かなければなりません。一般恩恵的な意味でもこの喜びを失っているのです。そして、時代はますます罪の色を深めて行くでしょう。人々は、心の中に、畏敬の念を込めてほめたたえるものを持ってないのです。しかし、このままでよいのでしょうか。

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《隠されている罪》

2011-01-23

  だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。 (詩篇19:12)

 みことばの恵み(7~11)を妨げるものは罪しかありません。中でも厄介なのは<隠れている罪>なのです。◇隠れている罪があるのですから「明らかになった罪」もある訳ですが、著者が後者を問題にしていないことに先ず留意しなければなりません。明らかになった罪はほとんど問題を引き起こさないからです。本人も気をつけますし、周りの人もその罪を刺激しないように配慮してくれるからです。これを「罪の意識化」と言います。何よりも意識化できた罪に対しては、私たちクリスチャンには悔い改めの恵みが与えられていることを覚えねばなりません(Ⅰヨハネ1:8~10)。◇そういう訳で、みことばの恵みを妨げ破壊してしまうのは、多くの場合<隠れている罪>なのです。しかし、それにも二つの範疇があることを知らねばなりません。一つは、本人は気がついているのに他の人に隠している罪です。典型的なのがイスカリオテ・ユダでしょう(ヨハネ12:4~6)。これは、本人には意識化できてる訳ですから、悔い改めの責任と義務があります。主イエスが最後の最後まで彼を弟子団に残しておられた理由はここにあるでしょう。◇一番厄介なのは、本人にも隠されている深層にある罪です。著者はその具体例として<傲慢の罪>を挙げています(13)。何処かに「謙遜の限りを尽くして」という言い回しがありましたが、みんな自分こそそうだと思って生きているのではないでしょうか。傲慢の罪は本人にも他人にも巧みに隠されているのです。著者は、この罪を制することができれば、他のすべての罪を制することができると告白しています。同感です。<どうか、隠れている私の罪をお赦しください。>と祈らねばなりません。

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《みことばの力》

2011-01-22

  主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。 (詩篇19:7)

 信仰は、天を見上げて神の存在を認める(1~6)だけにとどまるものではありません。その神様が、自分の人生に深く関わっていることを知ることでもあるのです。◇ここには<主のみおしえ><主のあかし><主の戒め><主の仰せ>とたて続けに出てきます。ひっくるめて私たちは「みことば」と呼んでいるわけです。そしてここには、そのみことばがもたらす素晴らしい働きが明らかにされています。みことばは<たましいを生き返らせ><わきまえのない者を賢くし><心を喜ばせ><目を明るくする>のです。このようなみことばの素晴らしさを知ることにおいて、私たちは乏しい者であってはなりません。いろんなタイプのクリスチャンがいてよいでしょう。しかし、みことばを軽んじる者であってはならないのです。◇みことばの素晴しさを体験した人は次のように告白します(10)。<それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。> 金は、この世で最も価値あるものです。また<蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。>とも語っています。この世の最もおいしいものを代表してるのでしょう。即ち、どんな素晴らしい持ち物よりも、どんな魅力的な楽しみよりも、みことばの力に預かることは素晴らしいのだと告白しているのです。◇私たちは、この点において貧しい者であってはならないのです。金が殖えることも祝福でしょう。舌を楽しませることができるのも恵です。しかし、それだけで主の祝福を測っていたら、私たちの信仰は世俗の流れに呑みこまれていくでしょう。みことばの力に預かって生きる者でなければなりません。<それを守れば、報いは大きい。>と言われているのです。アーメン。

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《信仰の目で見る》

2011-01-22

  天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。 (詩篇19:1)

 これぞ「信仰の目」と言うことができるでしょう。◇科学的な見方からは、このような表現は決して生まれてきません。科学的な目は、天体の存在や動きを観測し、そこに何か新しいものを発見し、そのメカニズムを解明してくれるでしょう。しかし、そこに神の<御手のわざ>を認めることはしません。それはもはや信仰の問題になるからです。信仰がなくても科学はできます。もち論、信仰者もできます。しかし信仰者でなければ、大空を見上げてそこに神の創造のみわざを見ることは決してできないのです。神の存在を認めるか認めないかが、それぞれの科学の大前提であり出発点であるからです。◇改めて、物事の見方にはその前提によって二つの見方が生じるということを覚えねばなりません。クリスチャンはこの両方の見方に対して誠実でなければなりません。科学で信仰を否定してもいけませんし、信仰で科学を否定してもいけないのです。科学を絶対視して神を否認してもいけないし、神を強調するあまり科学的真理を否定してしまってもいけないのです。科学も、私たちの生活を豊かにするために与えられた神の賜物なのです。◇現代人の課題は、科学を神の座に据えてしまったところにあると言えるでしょう。大空を見上げても、そこに神のわざを見られなくなっているのです。近代の合理主義と科学的な見方が信仰の目を覆っていると言ってもよいでしょう。目からうろこを取り除かなければなりません(使徒9:18)。信仰の目は、大空に神の御手のわざを見るのです。神の自然啓示を教理のうちだけにとどめていてはいけません。伝えられる<話>があり、示されている<知識>があり、私たちを求める<呼び声>が<全地に響き渡っている>のです。ハレルヤ。

《世界の光ならば》

2011-01-02

  あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。    (マタイ5:14)

 昨日の元旦礼拝の続きです。二つ目に主イエスは、クリスチャンをたとえて<世界の光>だと言われます。◇同じように聞こえますが、<地の塩>とは微妙な違いがあります。<地の塩>においては、主は<塩け>を持つことの重要性を訴えておられますが、<世界の光>では輝くこと、即ちその働きを強調しています。つまり、すでに光源は備わっている、だから次に大切なことは、それで世界を照らすことだと言っておられるのです。続けて、この世におけるクリスチャンの存在は<山の上にある町>のようだとも言われます。何処からも常に見えます。特に、あたりが暗くなると、その輝きは一層増してくるのです。<燭台>のたとえも同じことを強調しているのでしょう。◇では、クリスチャンの持っている光源とは何でしょうか。私たちはすでに、ヨハネの伝えたクリスマスでそれを学びました(ヨハネ1:4,5)。論理上はきちんと区別して考えねばなりません。私個人の光は、せいぜい半径5メートルぐらいしか届かないでしょう。しかし、<人の光>であるキリストの光は、今でも<地の果てにまで>(使徒1:8)拡がり続けているのです。◇私たちはすでにこの<あかりをつけて>いるのですから、それを<枡の下に置く>ようなことはしてはならないのです。ノーベル平和賞を受けたときのマザー・テレサのことばを思い出します。ある記者が「世界には何十万という飢えた子どもいる。あなたは、その子どもたちのことをどう考えているのか。」と質問した時、テレサは皮肉たっぷりに「私は半径5メートル以内にしか関心がない。」と答えたそうです。考えさせられるではありませんか。半径5メートルの光が、世界の人々を感嘆させる光となったのです。

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