浦和聖書バプテスト教会

2月, 2011年

《このむなしき人生の中で》

2011-02-27

  空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。   (伝道者の書1:2,3)

 これが神を宣べ伝える伝道者のことばでしょうか。私たちは戸惑いを覚えます。◇しかし彼は(ソロモン王)、これを自分の経験を踏まえた上で語っているのです(2章)。彼は事業を拡張し、邸宅を建て、ぶどう畑を設け、庭と園を造り・・・

3百人からのそばめも手に入れました。この地上のあらゆる楽しみを味わい尽した。その結果こう悟ったのです(2:11)。こういう言及には、私たちも少し熟慮してみる必要があるでしょう。人生を日の当たる明るい側面だけで捉えていたら、こういうことばは不信仰にしか聞こえないでしょう。ましてや4:2のことばなどは、人生そのものを否定するとんでもないことばです。◇ところが、この空しさを悟った伝道者は、この書の最後で(12章)は次のように告げているのです。v1<あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。> v13<神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。> ちょっと考えると、これは矛盾してないでしょうか。空しかったら生きるに価しない、となるのが自然の論理です。しかし、そうならないところに神様を信じる者の不思議な人生があるのです。伝道者の伝えていることはこうです。この世には、神をほめたたえること以外には空しくないことはなにもない。◇このメッセージは、私たちも心して受け留めねばなりません。あれができれば充実する、これが実現すれば幸せになれる、と考えている私たちですが、あれもこれも神様をぬきにしてなそうとしてることが誤算なのです。要するに、真に空しくないことは神様をほめたたえることしかないと彼は伝えているのです。この真実をごまかすことなく受け留めねばならないのではないでしょうか。

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《倒れても倒れない》

2011-02-21

  その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。 (詩篇37:24)

 クリスチャン人生のすごいところは、倒れても倒れない、死んでも死なない、こういったところにあります。◇これは世の常識をまったく覆す信仰の真実と言わねばなりません。世では、倒れたらおしまい、死んだら終わり、これが当たり前の考え方です。だから、みんな懸命に倒れないように、死なないように頑張っているわけです。しかし、この時代の現実は、自分の頑張りで何とでもなるような生易しいものではないことは、最近たいていの人が痛いほど感じ取っているのではないでしょうか。神様ぬきで幸せな人生を築けるなら、みんなが幸せになっていていいはずです。◇私たちは改めて<人の歩みは主によって確かにされる>(23)ことを覚えねばなりません。人間の最大の誤算は、傲慢にも、神様ぬきで確かなものを築けると考えたことです。今の不安定極まりない社会は、その産物と考えてよいでしょう。私たちの人生には、神様が必要なのです。否、私たちの人生は、神様から始まって神様で終わるのです。◇では、主はどのようにして私たちをささえてくださるのでしょうか。v24にはそれが分かりやすく描かれています。先ず<その人は倒れても>と言われています。倒れることはないとは言われていないのです。しかし<まっさかさまに倒されはしない>のです。致命傷にならない、倒れても倒れない、のです。◇パウロも同じようなことを語っています(Ⅱコリント6:8~10)。<死にそうでも、見よ、生きており>とも<悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり>とも言われています。苦しい現実が180度くつがえっています。これが、神様のささえと助けと導きを持っている人生なのです。

《人の怒りと神の正義》

2011-02-13

  悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対してねたみを起こすな。  (詩篇37:1)

 腹を立てるような事が多い昨今です。特に神の正義が踏みにじられた時には、憤りを覚えます。◇しかし、みことばは、怒ることを戒めています。それは、腹をたてる時、それが正しい怒りであっても、たいてい<悪への道>に通じるからです(8)。ヤコブも<人の怒りは、神の義を実現するものではありません。>(ヤコブ書1:20)と語っています。だいたい怒りは、私たちの心を復讐に駆り立てます。身近な事柄においても、怒りに任せて事を行ってしまい、恥ずかしい失敗をした経験は誰もが持っているのではないでしょうか。◇では私たちはどうしたらよいのでしょう。悪や不正を黙って見逃せと言うのでしょうか。そうではありません。みことばは次のように語っています。<主に信頼して善を行え。>(3)<主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。>(7) 即ち、主なる神が必ず正義を行う時が来るから、その時を待ち望みつつ善を行え、と命じているのです。実際に主がさばきを実行される時が来るのです(2,9a,10a)  クリスチャン生活は自分で悪に復讐する生活ではなく、神のさばきに委ねていく生活です。大切なことは、神様にゆだねることです(5)。まかせることです。◇怒りは心にしまっておくことは出来ません。それを溜め込むと、ある時火山の噴火ように爆発して、周囲に大きな被害をもたらすことになります。かと言って、怒りを溜め込まないように、常に小出しにするのも好ましい姿ではないでしょう。怒りっぽい人は、やはり好かれません。主にゆだねることです。まかせることです。信仰によってこの生き方を身に付けることができれば、私たちの義は、必ず輝く時を迎えるのです(6)。

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《主を待ち望む》

2011-02-06

  私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は私のほうに身を傾け、私の叫びを聞き・・・(詩篇40:1)

 信仰生活は、ただ漫然と神様を信じているだけの生活ではありません。人生の様々な問題に、神様の有効な救いの御わざを求めていく生活なのです(1a)。◇まず第一に、神様は私たちの叫びに耳を傾けてくださるお方です(1b)。<私のほうに身を傾け>とはリアルな表現ではないでしょうか。日本語に言い換えれば「身を乗り出して」とでも表現できるでしょう。私たちに対する神様の関心の深さを示しています。だから私たちも、心に叫びをもって祈り求めねばならないのです。◇切なる思いで叫び求めると、次に主は、私たちを<泥沼から引き上げて>くださいます(2a)。著者がこれを過去の体験として語っていることに注意しなければなりません。過去の体験は、これからの人生の拠り所となっていくのです。人生は常に「これから」でなければなりません。◇さらに神様は、泥沼から引き上げてくださるだけでなく<私の足を巌の上に置いて>くださるのです(2b)。揺るぎのない人生です。迷ったり、戸惑ったり、臆したりすることのない人生です。この<巌>こそ主イエス・キリストです。キリストにある人生だけが<確かにされて>いくのです。「泥沼から巌の上に」これが神様の現実的・実際的な救いです。◇そして最後に覚えたいことは、このような現実的な救いを経験した者は、この救い主をほめたたえて生きて行けるということです(3)。救いを喜び、救い主であられる神様をほめたたえて生きて行けるところに、クリスチャンの逞しさがあるのです。<新しい歌>とは、なにも今までの歌を古いとすることではありません。現実的・実際的な救いを経験する度に、私の心の中で、その歌いなれた古い歌が新鮮に輝き響いてくる、といった意味でもあるのです。

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