浦和聖書バプテスト教会

3月, 2011年

《神に会う備え》

2011-03-27

  それゆえ、イスラエルよ。わたしはあなたにこうしよう。わたしはあなたにこのことをするから、イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよ。 (アモス書4:12)

 <それでも、あなたがたは、わたしのもとに帰って来なかった。-主の御告げ-> この4章には、このことばが5回も繰り返されています。◇それぞれが自然災害に関係のある出来事です。食料飢饉・旱魃・作物の病害といなご・戦争と疫病、そして最後は地震です。神様はイスラエルを信仰に立ち返らせるために、このような災害を送っておられたのです。残念ながら当のイスラエルは、神様のこの呼びかけに気付こうとせず、相変わらず不信仰を続けていたのです。しかし、愛の神は、なんとかして彼らを信仰に立ち戻らせようとしておられるのです。◇そこで6回目に神様は、今度は<わたしはあなたにこのことをする>と呼びかけておられるのです。<このこと>が何であるかは知らされていませんが、恐らく過去の5回の延長上にある事柄でしょう。そして神様のイスラエルに対する期待も変わりないでしょう。主なる神は、イスラエルが信仰に立ち返ることを求めておられるのです。◇大切なことに気付かされます。まずひとつは、神様はこれまでに何度も何度も私たちに語りかけ、神に立ち返るようメッセージを送り続けておられたということです。真摯に自分の歴史を振り返る必要があります。起こった出来事を神様ぬきで考えることが人間の傲りなのです。そしてもうひとつ大切なことは、6回目の<このこと>が起こらないうちに、悔い改めて神様に立ち返ることです。預言者は叫んでいます。<あなたの神に会う備えをせよ。>と。今のこういう時に神様に立ち返らなくて、何時私たちは神様のもとに帰って行ったらよいのでしょうか。

音声を再生

《主の赦しといやしを求めて》

2011-03-27

  「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また包んでくださるからだ。 (ホセア書6:1)

 誰もが心に深い傷を受け、いやしがたい痛みを覚えています。◇しかし、起こった出来事を取り消すことはできません。私たちは、これを抱えて、これからを生きてゆかねばならないのです。<私たちは、御前に生きるのだ。>とホセアは語ります。「どうしてこういうことが起こったのか」と問うだけでなく「これからどうやって生きてゆくべきか」と問わねばなりません。今私たちは、人が生きてゆくということはどういうことなのかを真剣に問わなければならない事態に直面しているのです。◇幸いなことに、私たちは主にある希望を見ることができます。<主は・・・また、いやし・・・また包んでくださるからだ。>とあります。もし主が打つだけのお方であるなら、主は何と残酷でむごい神でしょうか。しかし主は、今度は<また、いやし><また、包んでくださる>のです。私たちがこれからの人生において真剣に求めなければならないのはこれではないでしょうか。もし主のこの赦しといやしがないなら、私たちはこの痛みをずうっと抱えて生きてゆかねばならないのです。耐えられる人はいないでしょう。◇覚えてください。主は「耐えて生きよ」とは命じておられないのです。「いやされて、包まれて生きよ」と命じておられるのです。私たちは、こういう時だからこそ、主に立ち返って、主を切に追い求めて生き始めねばなりません。主なる神様だけが、私たちを赦し、またいやしてくださるのです。ホセアの呼びかけに耳を傾けねばなりません。<さあ、主に立ち返ろう。・・・主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」> アーメン。

音声を再生

《ゆだねることを学ぶ》

2011-03-14

  あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのこと

  を心配してくださる。    (詩篇55:22)

 信仰生活は、人生の様々な課題を主なる神様にゆだねて生きて行く生活です。ですから私たちは、ゆだねる生き方を身につけていなければなりません。◇先ず、ゆだねることは、自分の考えや計画をご破算にすること、ゼロにもどすところから始まります。実はこの点が、ゆだねることを妨げている最も大きな要因なのです。私たちはこう考えてしまいます。「私の考えはまちがっていない。だから神は必ず答えてくれるはずだ。」と。これでは神様を私の奴隷にすることです。逆でなければなりません。私たちが神のしもべなのです。ですから自分の考えをゼロにもどして、主なるお方に従う心構えをすることです。箴言19:21。これが出来れば、ゆだねることは大方できたと言えるでしょう。◇次に大切なことは、主なる神様が最善を行ってくださる、と信じ切ることです。<主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。>からです。ヤコブという人は、疑いながら求める人は<風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようだ>と表現しています(ヤコブ書1:6)。そういう人は二心のある人で、主から何かをいただけると思ってはならないとも語っています。疑いながらではなく、信じ切って求めることを学ばねばなりません。◇加えて大切なことは、神の時を待ち望むことです。<神のなさることは、すべて時にかなって美しい。>(伝道者の書3:11)とあります。当然忍耐が必要になります。我慢する忍耐ではなくて、待ち望む忍耐、期待し続ける忍耐です。自分の時計を捨てなければなりません。自分の時計に合わせて神が働いてくれると考えるのは、やはり神を奴隷にすることでしょう。人には神の時は分からないのです。しかし、神の時は必ず訪れるのです。

音声を再生

《ほめ歌を呼び覚ます》

2011-03-06

  私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。私は暁を呼びさましたい。(詩篇57:8)

 クリスチャンとは、神をほめたたえて生きて行く者たちです。ところが、これが途切れることがあります。◇ダビデがそうでした。この詩篇の表題を見ますと<ダビデがサウルからのがれて洞窟にいたときに>とあります。何時いのちが奪われるか分からない危険きわまりない状況の中でじっと身を潜めているときに、どうして神様をほめたたえることが出来るでしょう。少なくとも、声を出して賛美しただけですぐみつかってしまい捕まってしまうでしょう。しかしそれ以上に、気落ちと苦しみの心でどうして主をほめたたえることが出来るでしょう。ほめ歌を失ったダビデに同情できないわけではありません。◇と同時に、こういうダビデの姿を自分のクリスチャン人生に重ねてみないわけにもいきません。実際に、長い人生、洞窟に閉じこもらねばならないような時を経なければならないからです。しかし、それでもです。それでも、ほめ歌を失っていることは、神を信じる者にとっては決して好ましい状態であるとは言えません。いっ時も早く、賛美の心を呼びさまさねばならないのです。◇ダビデは自分のたましいに呼びかけます。<私のたましいよ。目をさませ。>と。賛美の心を眠らせたままにしておいてはならないのです。ほめ歌を失ったクリスチャンは、さえずることをしないうぐいすのようなものです。うぐいすがさえずることをしないなら、誰がその存在を認めることができるでしょう。私たちも自分のたましいに向かって<目をさませ。>と呼びかけねばなりません。眠ってしまったたましいを呼び起こすのはそう容易いことではないからです。さらに<十弦の琴>もほこりをかぶったままにしておいてはならないのです。心と現実が一体となってほめ歌が戻ってくるのです。

音声を再生


最近のメッセージ

年月別メッセージ

アクセスカウンター

  • 今日:173   昨日:125
  • Total:183785   Online User: 1