浦和聖書バプテスト教会

4月, 2011年

《イースターの出来事》

2011-04-24

  その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、・・・・  (Ⅰコリント15:6)

 このパウロの書簡が記されたのはAD55~57年頃と考えられています。主イエスが復活してからわずか20年ちょっとしか経っていないのです。◇ですからこの当時にはまだ、復活した主イエスに会った弟子たちがほとんど生き残っていました。その数は五百人以上に上ると言われています。この人たち全員が口裏を合わせて嘘をつき、キリストの復活物語をでっち上げたと考えることはとてもできません。彼らは、自分が<聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの>(Ⅰヨハネ1:1)をそのまま伝えています。それが、彼らの・・・と言うより、新約聖書の証言なのです。◇今日、世の中では一般的に、キリストの復活を宗教につきものの神話と考えていますが、そう考える人たちはこのような事実をどう説明できるのでしょうか。少なくとも、このパウロの証言だけでも嘘であることを証明しなければならないでしょう。しかし、そんな検証は何もしないで、頭から神話として片付けてしまっているのです。これが世の合理主義です。まさに<十字架のことばは、滅びに至る人々には愚か>なのです(Ⅰコリント1:18)。そこには、まったく根拠のない信仰を見ます。◇私たちは違います。私たちの信仰は、客観的で理性的な検証を経た根拠を持っているのです。改めて、最初の弟子たちがキリストの復活を信じる必要がなかったことを覚えねばなりません。復活したキリストに会っているからです。<じっと見、また手でさわったもの>をどうして否定できるでしょう。それを否定するには、それこそ嘘をつかねばなりません。彼らは、自分が見たことをありのままに伝えているだけなのです。

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《価値観の変換》

2011-04-17

  しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。 (ピリピ3:7)

 それまでの人生で得であると考えていたものを損と思うようになる。クリスチャン人生は、この価値観の変転から始まると言ってよいでしょう。◇パウロのあかしに耳を傾けてみましょう(4~6)。どれを取り上げても、当時のユダヤ社会においては、とても有利に働くものばかりです。そのまま進んでいけば、パウロはエリート中のエリートとして生きていくことができたでしょう。しかし彼は、キリストの救いを受けた時から、それらのものをみな損と思うようになった、と告白しているのです。v8では<それどころか・・・・それらをちりあくたと思っています。>と言っています。まさに、価値観の180度の変換です。◇私たちは、この変換がなにゆえに起こったのかを改めて注目しなければなりません。v7では<キリストのゆえに>と、v8ではもう少し詳しく<私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに>と言われています。もち論、キリストを知るすばらしさは自分の救いの尊さと重なります。とに角、人は本当にすばらしいものを知ると、それまですばらしいと考えていたものが、どうでもいいものに思えてくるのです(マタイ13:45)。◇改めて、私たちに必要なのはこの変換ではないでしょうか。クリスチャンは、キリストを信じた時、魂においてはすでにこの変換がなされているのです(Ⅱコリント5:17)。問題は、この変換が地上の実際の生活においてなされていないことなのです。肉によって生まれた者は肉、御霊によって生まれた者は霊なのです(ヨハネ3:6)。御霊で始められたことは、肉によって完成されることは絶対にないのです(ガラテヤ3:1~3)。

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《この人生、何を目指すか》

2011-04-17

  それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち・・・生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。(ピリピ1:20)

 こういう言い方が許されるなら、これはクリスチャンの悟りです。◇先に見たように(コロサイ1:24)、パウロは、自分の身をもってキリストの苦しみの欠けたところを満たしている、と言いました。実は、そういう生き方ができる背景には、このような心の姿があったのです。即ち、自分の身によってキリストがあがめられること、それが彼の人生のすべてであったのです。ですから彼は、キリストがあがめられるなら自分が死ぬこともよしとする、と告白しています。このような境地に到ったなら、私たちの人生はどれほど変わっていくことでしょうか。恐らく、私たちが日常的に抱えているほとんどの問題が、問題ではなくなるでしょう。◇私たちは、あまりにもキリスト以外のことにこだわり、囚われてしまっているのではないでしょうか。自分にこだわり、世にこだわり、そしてキリストのことはそっちのけ。クリスチャンがこういう生き方をしてる限り、価値ある苦しみは生まれてこないでしょう。改めて、私たちが囚われるのは、主イエス・キリスト以外にないことを確認しなければなりません。私たちは、キリストの囚人なのです。◇仕事も学びも、家庭生活も友との語らいも、すべて<キリストがあがめられること>のためになされていなければなりません。これが、クリスチャン人生の唯一ですべての目標なのです。この目標を見失っているから、俗っぽい肉的な生き方に堕ちてしまうのです。聖別された生活は、この目標がしっかり据えられ、目指されているときに自ずから生まれてきます。パウロはこれを<私の切なる祈りと願い>であると言います。私たちも、同じように言えなければなりません。

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《人生の価値と苦しみ》

2011-04-05

  あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。        (ピリピ1:29)

 人生の価値は、何のために苦しんでいるか、で決まると言ってもよいでしょう。三つの側面から考えられます。◇一つは、自分の幸福ためにです。これは誰もが求めているのですが、神様は、これだけを求める人生を決してよしとはしておられません。利己主義、自己中心の生き方になってしまうからです。二番目の側面は、いわゆるヒューマニズム(人間愛)に基づいた生き方です。よく言われる「世のため、人のため」という生き方はそれを指しています。これは世の中でも歓迎される生き方で、神様も否定してるわけではありません。しかし三番目に、私たちにはそれ以上の生き方があることを知らねばなりません。◇それが、このみことばが示している「キリストのために苦しみを負う」という生き方です。三つを簡単に言い換えると、自分のため・隣人のため・主のため、となるでしょうか。もち論、キリストのために苦しめる人はクリスチャン以外にいません。しかし、すべてのクリスチャンがそのような生き方をしてるわけでもありません。後にパウロは<だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。>(2:21)と嘆いています。可能性を持ってはいても、私たち罪人は常に低きに向かってしまう傾向を持ってることは承知しておかねばなりません。◇注目したいことは、キリストのための苦しみを、パウロが<賜った>と表現してる点です。即ち「神から与えられた尊い恵み」という意味です。私たちは、神様からのこの尊い恵みを受け取ることにおいて、決して臆する者であってはならないのです。三つの生き方いずれにしても、苦しむことは必ず伴うのですから。

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