浦和聖書バプテスト教会

6月, 2011年

《まずパンくず拾いから》

2011-06-19

  「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」 (マルコ7:28)

 この女性の抱えている悩みは決して小さなものではありませんでした(25)。だから彼女は、この娘を救うために<イエスのことを聞きつつけてすぐに>イエスのところにやってきたのです。◇この彼女の求めに対する主イエスの応対は、どちらかというと冷たいものでした(27)。どうやらこの時の主イエスには、特別な事情があったようです(24)。理由はよく分かりませんが、主は<だれにも知られたくないと思われた>のです。ひそかに時を過ごしたかったのでしょう。そこにこのギリシャ人女性がやってきたのですから、出会いの時としては決して好ましい状況ではなかったのです。しかしそれよりも、主は何と言っても父なる神のご計画を優先しなければならなかったのです(27)。◇もしここで彼女が断念して引き下がってしまったら、娘はそのまま苦しみの中に取り残されたでしょう。そして彼女は、何のために主の御もとに来たのか分からなくなってしまったでしょう。ただ無駄足を踏んだ、で終わってしまうのです。現実に、そういう歩みをしてしまっている人がいなくはありません。しかし、彼女はあきらめませんでした。「食卓から落ちるパンくずのような祝福でも結構ですから・・・」と食い下がって主に求めたのです。こういう信仰を主が無視なさるはずがありません。◇私たちもまず、パンくずを拾うことから始めねばなりません。完成された丸ごとのパンだけを求めることが求めることではありません。最初からそれを求めるのは、ある種の高ぶりとさえ言えるのではないでしょうか。パンくずを軽んじる人は、結局何も与えられないままで終わるのです。<食卓の下の小犬でも・・・パンくずをいただきます。>

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《まず罪の赦しを受けて》

2011-06-12

  イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われた。

(マルコ2:5)

 注目したいのは、この中風の人が先ず罪の赦しを受けて、それからいやしの祝福に与っていることです。◇これは、私たち人間が考えているのとは大きく違います。一般的に人は、罪の赦しなどどうでもよいのです。それよりも、現実の生活で困っている事態が好転すればそれでよいのです。宗教も信心も、そのための有効な手段と考えています。そして、自分の罪には触れてほしくないのです。要するに、罪はそのまま隠しておいて、現実の生活が恵まれればそれでよいのです。神様にもそのように働いてほしいのです。宗教においてさえ、人は利己的であり自分中心である、と言ってよいでしょう。◇もち論この中風の人も、いやしを求めて主イエスのところにやってきました。しかし主は、彼をいやす前に、まず彼の罪を赦しているのです(5)。これには注目しなければなりません。現世的なご利益が主の十字架の目的ではないからです。十字架は罪の贖いです。永遠のいのちに与ることです。想像してみてください。もしこの人が中風をいやされただけで罪を赦されないままで帰っていったら・・・。からだは元気になっても、その人生には永遠の滅びしかないのです。◇まことの救い主である主イエス・キリストがそのような現世的な救いだけで済ませるはずがありません。先ず罪の赦し、神の赦し、永遠の救いに与らせ、その後に現世的な祝福も与えてくださるのです。神であられる主イエス・キリストだからそれができるのです(7)。ですから私たちも、先ず罪を悔い改めることから始めねばなりません。<子よ。あなたの罪は赦されました。> ここから出発しなければ、その後の頑張りはすべてむなしく終わってしまうのです。

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《窮地に陥ったときに》

2011-06-12

   多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない」と。 (詩篇3:2)

 クリスチャンが周囲の人々からこのように言われてしまうことほど屈辱的なことはありません。これを放って置いてよいのでしょうか。実は、このような時こそ信仰がためされているのです。◇ダビデは先ず、改めて自分の信仰を確認しています。自分が神様をどのようなお方として信じているか、ここから始めねばなりません。主は自分を守ってくださる方、また<私のかしらを高く上げてくださる方>(3)。さらに、呼び求めると答えてくださる方(4)なのです。このような方として主を信頼しているか、これは私が自分に問わねばならない点ではないでしょうか。これを確認しないまま動き出すから、後で混乱を招くのです。◇次にダビデが示してる姿は、本当に主を信頼できた人の平安な姿です(5,6)。自分を取り囲んでいる幾万の敵をも恐れることなく、安らかに身を横たえて就寝むことができるのです。このような恐れのない平安こそ、今私たちが最も必要としているものではないでしょうか。危険に満ちた世界、将来に見通しが立たない世界。私たちは今、そういう世界に生きているのです。いたずらに動揺したり不安をつのらせる姿に、人々がどうして神の救いを見るでしょうか。◇私たちのあかしは「彼に神の救いはない」を「彼には神の救いがある」に変えることです。ダビデはこの後の歩みにおいて、これを見事に実証していくのです。<救いは主にあります>(8) これをことばだけで終わらせてはなりません。自分の生き様を通して現わしていかねばならないのです。私たちには、それができるのです。<主よ。立ち上がってください。>と祈りつつ、私たちも立ち上がっていかねばならない時を迎えているのではないでしょうか。


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