浦和聖書バプテスト教会

8月, 2011年

《赦すことを知らない人々》

2011-08-28

  そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」   (ルカ23:34)

 十字架上での有名な主イエスのことばです。◇驚きと感動を覚えるのは、主イエスが自分を十字架につけて殺そうとしている者たちためにこのようなとりなしの祈りをささげていることです。このような赦しを、私たちは見たことがありません。確かに主が言われたとおり、彼らは<自分で何をしているのかわからない>人たちでした(Ⅰコリント2:8)。しかし、それだから彼らに赦される資格があると誰が言えるでしょう。知らないでなしたことも、罪は罪なのです。しかし主は、十字架の死を悶え苦しみながらも、なお彼らを赦そうとしておられるのです。◇もしこのような赦しが私たちの間でなされていたら、この世界はどれほど平和に満ちたものになるでしょうか。しかし現実はまるで反対です。赦せないのです。電車の中でちょっと足を踏まれただけでも、なぐり合いのけんかが始まってしまうのです。赦す心が持てないが故に、人はみずからを無駄な戦いに駆り立て、意味もなく血を流し続けているのです。身近な人間関係においても同じです。相手の欠点を非難し、責め、さばくことしかできない。これが私たちの不幸の原因なのです。◇主イエスのもうひとつのたとえ話に注目しましょう。マタイ18:21~35。ここには、とてつもない赦しを受けているにもかかわらず、充分赦せる可能性のある<同じしもべ仲間>を赦すことができない人が出てきます。これが私たちの姿でないことを願うばかりです。赦すことができたら、私たちの生活は間違いなくもっと穏やかで平和に満ちたものになるでしょう。心から赦すことができるなら、傷つき、悩むことすらなくなってしまうのです。ハレルヤ。

《主の再臨とその備え》(4)

2011-08-21

この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。(マルコ13:31)

 終末の苦難の日々の最後に、いよいよ主イエスが再臨されます(24)。その日は、この宇宙の秩序も崩れ去る日です。私たちは、この日を迎えるに当たってどんな備えをしていなければならないのでしょうか。◇まず最初に、自分が今どんな時代に生きているか、自覚して生きることです(28,29)。それも、ただこの時代を断片的に分析するだけでなく、神の救剤史の中で何処に位置しているかを認識しておかねばなりません。いちじくが芽を吹き出す時期は遠の昔に終わっているのです。主は<これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。>と教えておられます。これを知らないで生きているなら、その人生はきっとトンチンカンな生き方になってしまっているはずです。◇次に最も大切なことですが、生きることの根拠を「この時代とともに滅んでしまわないもの」に置くことです(30~32)。たとえば明日終わりの日が来ると知ったら、今日どう生きるかはずいぶん違ってくるのではないでしょうか。無駄なもの、どうでもよいものは全部捨てて、本当に大切なものだけを選択して生きるでしょう。私たちはあまりにも、どうでもよいことにこだわり、あくせくして悩んでいるのです。ここいら辺で、思い切って、主のみことばを拠り所とする生き方にチェンジしなければなりません。◇最後に必要な備えは、その日が何時来てもよいように、目をさまし、注意して生きることです(33~37)。主のたとえから推察すると、それは神様から与えられた責任を怠りなく果たしていくことと言ってよいでしょう。しもべにはしもべの、門番には門番の責任ある務めがあるのです。この点においても、トンチンカンな生活をしないように心掛けなければなりません。

《苦難の日の到来》(3)

2011-08-21

その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。(マルコ13:19)

 ここで主は、ご自分の再臨される直前にどんな時代が来るかを明らかにされました。◇苦難の時代です。それも、人類史上、後にも先にもないような苦難が来るのです。しかも、これが全地球規模で起こるのです。恐らく、この日に至るまでに、すでに人間社会の政治的均衡は破れ、経済も破綻しているでしょう。しかし、この苦難は長期に渡るものではありません。主はご自分の<選びの民>のために<その日数を少なくしてくださった>のです。救われるべき人々が確実に救われるためにです。決してよい時代へと改善されるためではありません。◇この日が来たら、人間の営みはすべて放棄されねばなりません(14~18)。その場からただ<逃げる>ことしか出来ないのです。家から何か持ち出そうとして、家に入ってもいけないのです。着の身着のまま逃げねばなりません。いのちだけは助けるためです。このとき悲惨なのは、妊婦と乳飲み子を持つ母親です。彼女は、自分のいのち以上に助けなければならないいのちを抱えているからです。しかし、すばやい行動は採れません。◇さらに加えて、この日には<にせキリスト、にせ預言者>が出現します(21,22)。彼らは惑わす者です。何によって惑わすかというと、<しるしや不思議なこと>を行って見せるのです。いわゆる奇跡と思われるわざです。奇跡に弱い人は特に注意が必要です。私たちに求められるのは、本物とにせものとを見分ける力です。難しいことではありません。主イエスは、みことばによって明らかにされたその通りに来臨なさるからです(23)。ですから、こういう主イエスのみことばを心のどこかに保っておく必要があるのです。その者には混乱や間違いはないのです。

《終末の前兆》(2)

2011-08-21

「お話ください。いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」(マルコ13:4)

 この世界の終わり(終末)について、主イエスはまずその前兆を明らかにします。◇最初に外の世界ですが(5~8)、<わたしの名を名のる者が大ぜい現れる>こと(宗教乱立)、<戦争のことや戦争のうわさ><地震やききん>が起こることが挙げられています。私たちは、これらのことはすでに起こっていることを確認することができます。しかし、これらのことはまだ<産みの苦しみの初め>(8)に過ぎないのです。ということは、私たちの生きているこの時代は、すでに終末が始まっていると言わねばなりません。私たちは、終わりの時代にいるのです。そして、この苦しみの傾向はますます深まっていくのです。しかし、必ず産まれる時が来るのです。◇次に主は、私たちクリスチャンにどんな前兆が起こってくるかをも明らかにします(9~13)。ひとつは、権力による迫害です。信仰を持つことで罰せられる時がくるのです。しかし、恐れてはなりません。主はこの時を福音があかしされる好機として用いられるのです。聖霊が特別に働いてくださることが約束されています。もうひとつの前兆は、家族・肉親どうしの殺し合いです(12)。考えられないことですが、愛が最も実践されるべき場所が戦場と化すのです。◇どうも終わりの時代はクリスチャンたちにはとても生きずらい厳しい時代のようです。クリスチャンであるがゆえに尊敬される時代は過ぎ去り、反対に<みなの者に憎まれる>時代となるようです。求められるのは忍耐です。<最後まで耐え忍ぶ人は救われます。>と主は言われます。恐らく、楽をしたいだけの信仰はふるわれてしまうでしょう。もうそういう時代の足音が、ひたひたと近づいているようです。

《終末の預言》(1)

2011-08-21

すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、詰まれたまま残ることは決してありません。」 (マルコ13:2)

 この世界のすべての物は、人のいのちをも含めて、必ず始めがあり終わりがあります。しかし普段の生活では、ほとんどの人がこの厳然たる事実を忘れて、地上の何かにこころ引かれて生きています。◇ここでもそうです。ひとりの弟子が、石で造られた宮を見て、その石の<みごとさ>、建物の<すばらしさ>に驚きを覚えました。普通の会話です。しかし主は、この機を捉えて、世界の終末について教えられたのです。<石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してない>とは、どんな堅固なものでもやがて必ず崩れ去る時が来る、ということでしょう。始めがあるものは、必ず終わりもあるのです。◇この世界も例外ではありません。始めがあり、終わりがあるのです。被造物すべてがそうなのです。始めもなく終わりもないのは、神ご自身だけです。これが、創造主と被造物との違いです。この章の終わりのほうで、主はこのことを明言なさいます。<この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。>(31) 私たちは、滅びるものと滅びないものとを明確に区別して生きねばならないのです。◇現実はどうでしょうか。ほとんどの人が<みごとな石>や<すばらしい建物>に目を留めるだけで生きているのではないでしょうか。使徒パウロのことばにも注目しましょう。彼は<私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。>(Ⅱコリント4:18)と告げています。この<私たち>の中に、今のこの私が入っていることが確認できるでしょうか。私たちは、天の御国を目指している者ではないでしょうか。

《人の愚かさと神の救い》

2011-08-21

愚か者は心の中で「神はいない」と言っている。(詩篇14:1)

 人間は多くの愚かなことをなしてきましたが、最大の愚かなことは神を否定したことです。◇この詩篇のことばは、決して人間を悲観的に見ているのではありません。人の真実な姿を明らかにしているのです。二つの点を踏まえることができるでしょう。一つは、神を求める者がひとりもいないという事実です。これは私たち自身を見れば分かります。人はそれぞれいろんなものを求めて生きていますが、神を求める人はいないのです。それどころか、かえってますます神から離れてしまう傾向にあるのです。そしてその結果、<だれもかれも腐り果てている>のです。特に現代は、従来の道徳観・倫理観が崩れ去っていく時代と言えるでしょう。腐ってダメになってしまう人生を歩んでいるのです(アモス8:1~2)。

◇しかし、愛の神はこういう愚かな人間を見捨てられたのではありません。御子イエス・キリストをこの世に遣わし、彼によって私たちを救おうとしておられるのです。Ⅰコリント1:18~21。神を知ることにおいては、この世の知恵はまったく無能です。人の知恵を用いて神を探求しても無駄だということです。この意味で、この世の知恵は愚かなのです。ですから愛の神は、私たちを救うために違う方法を採られたのです。それが信仰による救いです。<神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。> ◇愚かなまま滅びに向かうか、それとも、愚かであっても神の救いに与るか。信仰は、この天と地ほどの違いをもたらすのです。まちがっても、知者であるから救われたと考えてはなりません。神を知ることにおいては、私たちはみな愚かなのです。愚かだからこそ、愛の神は信仰による救いを打ち立てられたのです。アーメン。

《山を動かす》

2011-08-21

イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。(マルコ11:22)

 いちじくの木が枯れた後で主イエスが語られたみことばが、またまた大変興味深いみことばです。意味もなくただ驚いているだけの弟子たちに、主は一喝します。「神を信じなさい。(22)◇もち論、弟子たちがまったく神を信じていなかったわけではありません。しかし、彼らの信仰は欠しく、あまりにも動きのないものだったのです。主のメッセージを要約させてもらえば「いちじくの木が枯れたぐらいで驚きなさんな。信じる者には山をも動かすことができるのです。」とでも言えるでしょうか。◇今日の日本のクリスチャンたちは、このみことば(23)にどういう感想をもたれるでしょうか。あらゆる所に閉塞感が漂う昨今、このみことばを素直な気持ちでストレートに受け止められなくなっているのではないでしょうか。かえって、主に対する反発の声さえ聞こえてくるような気がします。「何と大げさな。これはイエスのほら吹きだ。教会を覗いて見ろ。何も起こっていないじゃないか」

これは私たちに対する挑戦です。◇歴史を振り返ってみてください。私たちの先輩は、その信仰によって、大きな山をいくつも動かしてきたのです。特に、自由と平等を勝ち取った戦いでは、クリスチャンたちが関わっていないものはひとつもないでしょう。◇今の私たちの現状を標準にして考えていてはいけません。信じる者は山をも動かすのです。私たちは現実を踏まえていても、現実に支配されて生きて行く者ではないのです。まず信じて祈り求めねばなりません(24)。現実に支配されているからこういう祈りが生まれてこないのです。また同時に、罪を抱えたままで祈っていてはいけません(25)。クリスチャンこそ愛と赦しの実践者でなければならないのです。十字架を忘れては山が動くことはないでしょう。

《的はずれな繁栄》

2011-08-21

葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが・・・(マルコ11:13)

 いちじくの木は実をつけてこそ価値があります。どんなに葉を茂らせていても、実がないならそれは的はずれな繁栄なのです。私たちはここに、いちじくではなく人を見なければなりません。◇このいちじくの木は遠くから人目を引くくらいよく茂っていました(13)。主は「何かありはしないか」と期待を寄せられ、わざわざ<見に行かれた>のです。主はこう思われたのでしょう。あれだけ葉が見事に茂っているのだから、ひとつやふたつ、少しは実があるだろう。しかし、このいちじくの木には<葉のほかは何もなかった>のです。◇わざわざ期待して足を運んだのに、主はどんなにがっかりされたことでしょう。それどころか、主はこのいちじくの木をのろわれたのです(14)。このいちじくの木は一晩で<根まで枯れて>しまいました(20)。主は何故こんな酷なことをなさったのでしょう。実のない理由も<いちじくのなる季節ではなかったからである>(13b)と示されているではありませんか。「実のない季節に実を求めるとは、主のほうが悪い」とさえ言えなくもありません。しかし、主がこの季節を知らないでいたわけではないでしょう。◇言えることは、主は多くの実を求めたわけではありません。青々とした葉の茂り具合から、ほんの少しの実ならあるだろう、と期待なさったのです。実のなる季節に実があるのは当然、しかし、実のない季節であってもゼロではないだろう。主はこう期待されたのです。考えさせられるではありませんか。いちじくの木が葉を茂らせることに全力を注いでしまい、大切で本来の実を結ぶことができてないなら、それは的はずれな繁栄なのです。葉はそこそこでも、実はきちんと結びたいものです。

《十字架と復活の理解》

2011-08-21

しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。 (マルコ9:32)

 十字架と復活(31)は福音の真髄です。しかし現実は、これがなかなか理解されないのです。◇ここでの主イエスは、特別に弟子たちだけに十字架と復活の意義を教えようとされたようです。<イエスは、人に知られたくないと思われた>とは、民衆に邪魔されずに弟子たちだけに向かっておられる主イエスの姿として捉えることができるでしょう。もうその時が来たのです(1~4)。間近に迫る十字架と復活の出来事を、もし弟子たちが何の理解もしてないままで迎えたら、それを福音として捉えることができず、かえって困惑を招くことになってしまうからです。事が決まったからには、それを弟子たちに明らかにしておく必要を覚えられたのです。◇ところが弟子たちには<このみことばが理解できなかった>のです。理解できてないままで、弟子たちはやがて十字架と復活という出来事に遭遇することになります。さらに残念なことに、弟子たちは、分からないことを<イエスに尋ねるのを恐れて>しまったのです。事の重大さだけは感じ取ったのでしょうが、それ故にかえってその意味を主イエスに尋ねることができなかったのです。主イエスが十字架に捕らえられた時の彼らの困惑は、ここにその原因があったと考えることができるでしょう。◇私たちは、この弟子たちの姿から学ばねばなりません。十字架と復活を理解できてる弟子がひとりでもいたら、その時になって全員が主を見捨てて逃げ出してしまう(14:50)というようにはならなかったかも知れません。今の私たちにとっても同じです。十字架と復活が理解できてる心は、主を見捨てるようなことは決してしないものです。問題は常に、福音の行き届いていない心から生じるのです。

《罪に苦しむ者だから》

2011-08-21

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」   (マルコ2:17)

 だれでも一度や二度、病気になってお医者さんの有難さを知ったという経験はしているでしょう。ところが、ほとんどの人が、自分の心の罪の問題には気付いていないのです。これが一番の問題です。◇何が私たちを苦しめ、人生を狂わせてしまっているか、それはすべて罪の思いから来ているのです。からだはたとえ弱くとも、罪の思いから救われていれば、幸せな人生を送ることはできるのです。からだの痛みは確かに辛くとも、決して私たちを不幸にするものではありません。からだの痛みを心の正しい姿で乗り切った人はたくさんいます。しかし、心が病んでいたら、からだは健康でも、すべてが崩れてしまうのです。◇罪は心の病気です。ここに登場するレビという人を見てください。彼にどんな罪があるというのでしょう。敢えて人々から毛嫌いされる<取税人>という仕事を選んだところに、彼の罪の心を見ます。彼は、人々から受ける普通の社会的評価を犠牲にして、お金のほうに価値を置いたのです。また<パリサイ派の律法学者たち>はどうでしょうか。イエスを非難したことが彼らの罪なのでしょうか。否、それをさせる彼らの心の中にある完璧とも言える差別意識が罪なのです。◇ところで、この私はどうなのでしょう。私を苦しめている本当の原因は、私の心の中に潜んでいる罪なのではないですか。「あの人が悪い。この人が悪い。」と他人を責める前に、まず自分の罪の思いから解放されなければなりません。主イエスはそのためにこの地上に来てくださり、十字架の上で身代わりとなって罪の贖いを成し遂げてくださったのです(ローマ5:6~8)。罪に苦しむ者だから、主イエスに拠り頼む必要があるのです。


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