浦和聖書バプテスト教会

9月, 2011年

《主の日の意義》

2011-09-11

 「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。」    (マルコ2:27,28)

 まず最初に、安息日がどのようにして「主の日」に移って行ったのかを見ておきたいと思います。残念ながら、その足跡をこと細かに辿ることはできませんが、すでに使徒たちの時代には、クリスチャンたちが<週の初めの日>に集いを持っていたことは確認できます(使徒20:7 Ⅰコリント16:2)。言うまでもなく、この日は、主イエスが復活した日です(マルコ16:9)。彼らは、古い土曜安息日礼拝の習慣よりも、救いが成就した主の復活日を重んじることをよしとしたのです。◇しかし、この推移が、安息日の意義まで変えてしまったわけではありません。かえって、その意義を改めて確立しているのです。今日の箇所(マルコ2:23~3:6)を見ると、当時のユダヤ人がどんなにその意義を見失っていたかがよく分かります。神様の戒めを勝手に変えてしまい、安息日が人を束縛するようになってしまっていたのです。律法的に安息日を守ればそれでよいというのではありません。大切なことは、この日を聖別し、<霊とまことによって>主なる神を礼拝してるかどうかなのです(ヨハネ4:24)。また、この日を、主のために用いているかどうかなのです(マルコ3:4)。◇私たちは、改めて、主の日が私たちのために設けられていることに留意しなければなりません。私たちは<週の初めの日>に、まず復活の主を礼拝することをもって一週間を始めるのです。日曜日は、週末ではないのです。主の日なのですから、まず主を礼拝し、主のために用いるのです。一週7日間のうちで、この1日だけは、世の様々なことから解放されて、時間を聖別して主の前で過ごす。それが、私たちの祝福につながるのです。

《休息の勧め》

2011-09-05

  そこでイエスは彼らに「さあ、あなたがただけで、寂しい所に行って、しばらく休みなさい」と言われた。 (マルコ6:31)

 まず最初に、この主イエスのみことばがどんなつながりの中で語られたかを知っておかねばなりません。v7~13を見ると、弟子たちはふたり一組で伝道に遣わされて、大きな働きを終えて帰ってきたところなのです。彼らは、驚きと喜びをもってその成果を主に報告しました(36)。このとき主が語られたみことばがこれです。主は、働きの後には休息が必要であることを知っておられたのです。休息は決して怠けることではありません。◇三つのことばに留意しましょう。第1は<あなたがただけで>です。これは絶対に他の人を排除する意ではありません。「気心のよく知れた仲間だけで」の意で、気を遣わないですむ状態を指していると受け取ってよいでしょう。気を遣ったら休息にはならないからです。第2は<寂しい所へ行って>です。寂しい所ですと誰にも休息を妨げられません。それに、神様が造ったままの自然が残っています。そういう自然は、そのままでいやす力を持っているのです。疲れをいやすために、にぎやかな繁華街に足を向ける人はちょっと考え直す必要があるでしょう。繁華街は罪の誘惑が溢れています。神様が造られた自然は、そのままで清いのです。第3に留意したいのは<しばらく休みなさい>です。ずうっと休んでよいのは、この世の働きを終えた人だけです。私たちは、しばらく休んで力を回復し、明日の働きに向かうのです。◇このように主のみことばを学んでくると、休息の仕方にさえ、神様の御心にかなったものとそうでないものとがあることに気付きます。私たちは、休息のときでさえ救われているクリスチャンなのです。御心にそむく休息は必ず何処かに無理とひずみがあるはずです。


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