浦和聖書バプテスト教会

12月, 2011年

《主の救いを見る》

2011-12-31

  主よ。あなたは私の神。私はあなたをあがめ、あなたの御名をほめたたえます。 (イザヤ25:1)

 この1節を正しく理解するためには、前の章(24章)に目を留めねばなりません。この信仰告白が、ある特殊な状況の中でなされているからです。◇詳しい説き明かしは必要ないでしょう。前章にざっと目を通すだけで、イザヤがどんな状況に立たされていたか、そしてその状況が、今日の私たちの置かれている状況といかに似かよっているかが分かります。<見よ。主は地を荒れすたらせ、その面をくつがえして…>と始まります。以下、社会の秩序は乱れ(2)、道徳的規準もめちゃくちゃになり (5)、<のろいは地を食い尽くし>(6)、人の陽気な楽しみも消え失せてしまうのです(8)。さらに、人々は<恐れと、落とし穴と、わな>(17)の中で、不安におびえながら生活しなければならなのです。まさに、国の存亡が明らかになってゆくような状況です。◇しかし、そういう不安きわまりない状況の只中で、世の人々とともに生活しながら<主よ。あなたは私の神。>と告白することが出来るのです。滅び行く世とともに滅びないのです。滅びの中に主の救いが現わされるのです。ここでの<私の神>は、救い主なる神です(4)。私たちは、救い主なる神の現実的、実際的な救いを見るからです。これは過去においてそうであったように、今もそうなのです。私たちに、生きる喜びを与え(6)、神を知る知識を与え(7)、死を滅ぼし、悲しみやそしりを取り去ってくださるのです(8)。さらに、他の人をして「主は救い主」と言わしめるに至るのです(9)。◇これが、新しく始まったこの年の歩みでなければなりません。私たちは、どうなるか分からないような単なる希望を抱いて生きている者ではないのです。私たちが<主よ。あなたは私の神。>と告白する神は、確かに救いの神なのです。アーメン。

《よろこびの御告げ》

2011-12-31

  きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 (ルカ2:11)

救い主誕生の喜びの御告げは、真っ先に野原にいた貧しい羊飼いたちに知らされました。◇なぜ神様は、この喜びを知る一番手に彼らを選ばれたのでしょう。それは、彼らこそ最も救いを必要としていた者たちだったからです。彼らは貧しく、しいたげられ、のけ者にされていた人たちでした。しかし、愛の神の眼差しは彼らに向けられていたのです。これは、今日でも同じです。どんなにすばらしい知らせでも、それに見向きもしない人に、どうして神がそれを知らせるでしょう。本当に救いを求めている人たちに、神は救いをもたらすのです。◇しかし、生まれたみどりごが救い主であると、どこで判断したらよいのでしょうか。羊飼いたちに<しるし>が明らかにされました。それは<布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご>でなければならないのです。これは絶対に間違えることはありません。間違いは、自分で勝手に救い主のイメージを作り上げ、それに合った人を捜そうとするから起こるのです。しかもこれは目に映る現象面だけではありません。ここには、徹底した神のへりくだりを見るのです(ピリピ2:6~8)。◇最後に、このすばらしい知らせを彼らが自分のものとした経緯を見なければなりません(15,16)。どんなにすばらしい知らせであっても、知らせだけで終わったら何の意味もありません。しかし彼らは出掛けていって、自分の身をもって確かめたのです(20)。これが信仰ということです。言い換えれば、彼らは出掛けていって救い主(キリスト)と出会い、このお方を礼拝することが出来たのです。この出会いと礼拝がなければクリスマスとは言いたくありません。最も重要なことなのです。

《驚くべき告知》

2011-12-31

  ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。   (ルカ1:31)

 これは当のマリヤにとっては勿論、今日の私たちにとっても驚くべき告知です。◇赤ちゃんがどのように与えられるか、マリヤが知らなかったわけではありません(34)。だから驚き、戸惑ったのです。クリスチャンたちは、これを昔から「処女降誕」という教理で捉えています(35)。救い主は、私たち人間が知っている自然の方法ではなく、一方的な神の奇跡、即ち聖霊の超自然的なみわざとして起こったのです。なぜ神がこのような方法を採られたかと言うと、救い主は人でありながら、原罪を持ってない存在でなければならなかったからです。後に私たちの罪を贖うためです。ですから私たちの主イエス・キリストは、この世界で唯ひとりの「罪のない人間」となられたのです。◇このクリスマスの物語を、世の人々は、ヨセフとマリヤの犯した罪のカモフラージュであると決め付けます。要するに、今流の言い方をすれば「できちゃった婚」と言うわけです。しかし、もしそうなら、聖書ほど嘘と偽りに満ちた世界はありません。嘘で始まり、嘘で終わっているのです。それを信じているクリスチャンたちは、この世界で<一番哀れな者>です(Ⅰコリント15:19)。どんなに美しくカモフラージュしても、罪は罪、嘘は嘘です。何の力もありません。◇主イエス・キリストの救いのみわざは「処女降誕」で始まり「復活」で完了しているのです。もしこの一方でも欠ければ、キリストの十字架にはどんな意味においても救いはありません。ですから、クリスマスを否定する者は、自らの救いを否定しているのです。マリヤは驚き戸惑いながらも、この告知を受け入れました(38)。同じです。求められているのは、このような信仰なのです(45)。信じることによって、真実は明らかになるのです。ハレルヤ。

《神の栄光を妨げるもの》

2011-12-11

  あなたがたのからだは・・・神から受けた聖霊の宮であり・・・。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。  (Ⅰコリント19:20)

 クリスチャンの生き方を考えるとき、これほど重要な聖句はありません。ここにはすべてが教えられています。◇まず簡潔に、クリスチャンとはいかなる者かが語られています。私たちは、主イエスを信じたとき、聖霊を受けているのです。<あなたがたのからだは・・・神から受けた聖霊の宮であり>とあります。真のクリスチャンには聖霊の内住があるのです。従がって神の栄光とは、この「内なる聖霊の現れ」なのです。これは、人の知恵や努力だけで神の栄光は現せるものではない、ということを意味しています。むしろ、内なる聖霊に自由に大胆に働いていただくことこそ、私たちが祈り求めねばならないことなのです。◇聖書の他の箇所を見てみましょう。<神の聖霊を悲しませてはいけません。>(エペソ4:30)とも<御霊を消してはなりません。>(Ⅰテサロニケ5:19)とも戒められています。サタンの常套手段を覚えておかねばなりません。サタンは、私たちを次から次へと苦しめることによって、自分のことだけで精いっぱいにしてしまい、神の栄光のために祈れなくし、また働けなくしてしまうのです。クリスチャンが苦しみと問題の中に閉じ込められている限り、サタンは大喜びでしょう。しかし、こういう状態から何とか脱出しなければなりません。◇みことばは<御霊に満たされなさい。>(エペソ5:8)とも<御霊によって歩みなさい。>(ガラテヤ5:16)とも命じています。私たちは、内なる聖霊の働きを妨げるあらゆる力に対抗して立たねばならないのです。私たちの戦いは<血肉に対するものではなく・・・この暗やみの支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。>(エペソ6:12)

《誰が祈るの?》

2011-12-04

  とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:13)

 何を祈るべきかを教えられた(v2~4)主イエスは、次にどう祈るべきかを教えておられます。それが、このたとえ話の意図するところでしょう。◇先ずこの人は、旅人である友人を助けるために、自分の休息を犠牲にし、自分の不足を補おうとします。とりなしの祈りがこのように始まって行くことを知らねばなりません。それはある種の犠牲を伴うものです。しかも、犠牲を払ったからといって、それで充分と言うわけでもないのです。友を本気で助けようとすれば、誰もが自分の不十分さにぶつかります。出してやるパンがないのです。自分のものをありったけ使い、「出来るだけのことはした」と納得してしまっているうちは、このような祈りは生まれてきません。◇そこでこの人はどうしたか。もうひとりの友人のところにパンを借りに出掛けます。真夜中にです。当然、最初は断られてしまいます。しかし、祈りが本格化するのはこの時なのです。主イエスの意味深いことばに注目しなければなりません(8)。<友だちだからということで>は、彼は動きません。しかし<あくまで頼み続けるなら>彼は起き上がるのです。求める祈りとは、このような祈りなのです(9,10 )。◇私たちに当てはめてみましょう。私たちも、クリスチャンということで多くの恵みを受けています。しかし、それらはクリスチャンなら誰でも受ける一般的な恵みです。ここでは違います。ここで教えられているのは、確かに特別な祈りです。主が、このお話の最後に、聖霊の特別で直接的な働きが与えられる、と語っておられるのを見逃してはなりません。全員がこのように祈るのは難しいでしょう。しかし、誰かが祈らなければならないのです。誰かが!

《人の生きる目的は?》

2011-12-02

 「祈るときは、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。(ルカ11:2)

 主イエスが、祈りの教えの最初にこのように祈りなさいと語っておられるのは、この祈りに、人生の目的のすべてがかかっているからです。◇端的に言えば、人は神の栄光を現すために生きねばならない存在なのです。これは、人間の創造の時から定められていることです(創世記1:26,27)。なぜ神が人間だけを<神のかたちとして>創造されたのか。それは、この目的を果たさせるためなのです。野の花はただ咲くだけで神の栄光を現わします。しかし人は、ただ生きるだけでなく、どう生きるかが重要なのです。それは、意識的な生き方が必要とされることを意味しているのです。◇しかし、現実はどうなっているのでしょう。ほとんどの人が、この目的を無視し、自分の幸せ追求だけで生きているのです。これが人間の罪の姿なのです。的はずれな生き方、目的を違えている生き方です。自分勝手に目的を定め、自分の満足が得られればそれでよしとする生き方が、実は罪の根源なのです。この生き方をみんなが追い求めることから、この世界のすべての問題が生じていると言ってもよいでしょう。実は、私たちの身近な問題も同じです。人は楽しい時にも自己中心、苦しい時にはもっと自己中心なのです。◇改めて、人生の目的を設定し直さねばなりません。使徒パウロの告白に耳を傾けてください。ピリピ1:20,21です。<生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられること> これをパウロは自分の<切なる祈りと願い>であると語っています。こういう生き方こそ、私たちが求めねばならない生き方なのです。喜ぶならそれは神の栄光のため。苦しむなら、それも神の栄光のためです。それ以外の生き方は、多かれ少なかれ利己主義の域を出ないのです。

《信仰の成長》

2011-12-02

ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。(創世記32:24)

ヤコブという人は人生最大の困難を乗り越えて、その信仰が成長しました。◇ヤコブは兄エサウを欺き長子の権利を奪い、また父イサクを欺き兄に与えられる神の祝福を奪いました。こうした罪の結果、兄はヤコブに殺意を抱きました。時が立って故郷に帰ろうとした時、ヤコブは様々な人間的な策略でこの困難を乗り越えようと考えます。そして、それらが無駄であると悟った時、信仰によって困難を乗り越えたのです。実は、この困難を乗り越える事を通して、ヤコブの信仰は飛躍的に成長を遂げています。では、どのようにして彼は成長したのでしょうか。2つの点が考えられます。◇第一にヤコブはたった一人になって神を求めました(v22-24)。これはただ単に物理的に一人になったというのではありません。家族、財産などの全てを捨てて、一人の信仰者として神の御前に立ったのです。実はこれが難しいのです。私たちは生きて行く上で沢山のものを得ています。ですから、それらを捨ててたった一人で神を求める事が中々出来ないのです。第二にヤコブは神と格闘して、悔い改めました(v24-27)。本当に神を求めている人は、神が現れた時に格闘します。その時、私たちは自らの罪を知り、神に悔い改めるのです(v27)。◇私たちがたった一人になって神を求め、神と格闘するならば、必ず悔い改めに導かれます。そして、十字架の赦しを深く実感するのです。ですから、私たちの信仰は成長するのです。私たちの信仰は日々成長しているでしょうか?ヤコブのように成長したいものです。

(文:伝道師 実成)

《死後のそなえ》(2)

2011-12-02

  小さな群れよ。恐れることはない。あなた方の父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。(ルカ12:32)

 この金持ちの愚かさは、物やお金でたましいの平安を得ることが出来たと考えたことにあります(19)。◇確かに彼は、自分のたましいに向かって<たましいよ。>と呼びかけていますから、一見すると、自分の内なる永遠の存在に気付いているかのように思えますが、事実はまったく違います。永遠なるものを物質的なものに巧にすり替えてしまっているのです。そもそも、たましいが食べたり飲んだりして楽しむというようなことはある筈がありません。彼は、内なる永遠の存在を外なる朽ちてゆく物に置き換えてしまっているのです。しかも、この愚かさに、自分で気付いていないのです。自分の愚かさに気付いている人を、主イエスはもはや<愚か者>とは呼ばないでしょう。◇この金持ちの姿。現在の私たち日本人の姿によく似ていないでしょうか。世の中の動向にちょっと目を向けるだけですぐ分かります。ほとんどの人が物とお金だけで動いているのです。この金持ちは、すばらしい計画を立てたその晩、自分の死を迎えます。主は「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。>と言われます。死とは肉体とたましいの分離なのです。それはいつ来るか、本人にも分からないのです。◇私たちは、この金持ちの姿に、死後のそなえの出来ていない典型的な姿を見ます。このたとえに続く主イエスのみことばに注目しなければなりません(22~32)。主は<何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。>(31)と命じておられます。他の事を脇において置いておいてでも、先ず真剣に求めなければならないのが<神に国>なのです。心に神の国を持ってない者が神の国に召されることは絶対にないからです。

《死後のそなえ》(1)

2011-12-02

 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。(伝道者の書3:11)

 死ぬことによってすべてが無に帰するのなら、何の備えも必要ないでしょう。しかし聖書は、人には朽ちてしまう部分と不滅の部分があることをはっきり示しています。◇<神はまた、人の心に永遠を与えられた。>と言われています(第二版訳注意)。直訳すると「永遠をセットされた」となります。これを霊と呼ぼうと魂と呼ぼうと、人には不死の部分があるということです。肉体の死は誰にもよく分かりますが、v3後半に記されているように、これは人には見きわめることができないものです。ですから人は、分かるところ、即ち死ぬことまでの準備はするのですが、その後のことには何の準備もしていないのです。◇しかし、もし肉体の死の準備だけで済ませていたら、それは何とむなしいことでしょうか。聖書は、もしそうだったら人は獣とまったく変わらないと伝えています (19,20)。<すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る。>これで終わりです。しかし、そうでないことは、すでに人間の創造の記録で明らかにされているのではないでしょうか(創世記2:7)。私たちには、神の<いのちの息>が吹き込まれているのです。◇ですから私たちには、死ぬこと以上に、死んだ後の準備が必要なのです。新約聖書には<人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている>(ヘブル9:27)と記されています。一度死ぬこと、これは説明するまでもないでしょう。問題は「死後のさばき」です。これが重大な問題なのです。死んだ後神の法廷に立たされた時、誰が自分の無罪を主張できるでしょう。私たちには、永遠の救い、永遠の赦しが必要なのです。改めて、イエス・キリストの救いのみわざに感謝しなければなりません (ヨハネ3:16,17)。

《想定外の人生だから・・・》

2011-12-02

  人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。(箴言16:9)

 <人は自分の道を思い巡らす。>とあります。これは説明するまでもない心の有様です。私たちは将来を予測し、見通しを立て、幸せを目指して歩んでいます。何の計画もない、行き当たりばったりの人生を歩んでいる人はそうはいないのです。しかし、その想定したとおりにならないのも私たちの人生の現実です。私たちには、明日何が起こるかさえ分からないのです(ヤコブ4:14)。◇「想定外」という言葉は、現在たいてい悪い意味で使われていますが、そうとばかりは限りません。よい意味でも想定外なのです。クリスチャンたちは、自分が救われたことを想定外のことと考えるでしょう。思い通りにならないことの中には、かえって、隠された尊い神のご計画があるのです。<しかし、その人の歩みを確かにするのは主である。>と続きます。絶対主権者であられる永遠の神は、先ずすべてのことをご存知であられます(詩篇139)。そして、私たちを最善の道に導いておられるのです(ローマ8:28)。知らないで導いておられるのではありません。現在も将来も、すべてを知った上で導いてくださるのです。ですから、想定外というのは私たち人間の側が言うことであって、神様の側ではすべては想定内のことなのです。◇非常に興味深い新約聖書の記事に目を留めましょう(マルコ4:35~41)。<激しい突風>が弟子たちを襲います。まさに想定外の事態です。弟子たちは慌てふためき、悲鳴を上げます。しかし、その同じ舟の中に、平然と枕をして眠ることができるお方がおられるのです。それもその筈、このお方は「黙れ。静まれ」のひと言で嵐を鎮めることができるお方だからです。弟子たちは、このお方によって沈没を免れることができたのです。ハレルヤ。

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