浦和聖書バプテスト教会

1月, 2012年

《危機で身につく信仰》

2012-01-29

  これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。(Ⅱコリント1:9)

 旧約時代の預言者(イザヤ)だけでなく、新約時代の聖徒(パウロ)も同じような神の取り扱いを受けています。◇<アジアで会った苦しみ>と言われていますが、これは敵対者からの迫害です。詳しい様子は分かりませんが、とに角パウロは<ついにいのちさえも危うくなり、ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟した>のでした。ひとつの疑問がわきあがってきます。なぜ神は、神の働き人がこんな危険な状況になるまで放って置かれたのか。なぜもっと早く助けなかったのか。この疑問は、誰もが覚えるのではないでしょうか。この疑問は、危機を乗り越えた後に解けてきます。それが冒頭の聖句に語られていることです。◇パウロは、まずネガチィヴの意では<もはや自分自身を頼まない>者になるためだったと言います。ポジティヴの意では、復活の主により頼む者となるためだったと言います。これには驚き入ります。パウロのような信仰の人でも、自分に頼まず主により頼むことを学び取る必要があったのです。否、パウロのような人だからこそ・・・と言えるのかも知れません。◇このように、神様の取り扱いは、危機の中で隠された形でなされるのです。隠されているので私たちには見えませんが、必ずこのような取り扱いの中に在ることを覚えねばなりません。これがクリスチャンです。私たちは、何かを学び取らされているのです。そして、これを学び取り、身につけた人は、それから後の信仰生活が大きく変わってきます(10)。主は、私たちの将来を考えていてくださるのです。もう不安と恐れを抱えて将来に向かう必要はありません。救いの確信と希望を持って将来に立ち向かうのです。

《もうだめだ》

2012-01-22

 「ああ、私はもうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に…(イザヤ6:5)

 この第6章は、イザヤ書の中でも特異な章です。イザヤが預言者として新しい人生に出発したときのことが記されているからです。◇先ず彼は、<…主を見た>(1)と語ります。これがきわめて特別な経験であることは言うまでもありません。これまでも彼は主を信頼し、働きをなしてきました。主も彼とともにいてくださったのです。しかし、この時は、彼は目に見えないはずの<主を見た>のです。これが単に神の存在を認めるといったことよりはるかに深い霊的体験であることは、誰も否定しないでしょう。彼は、直接主なる神の臨在に触れたのです。主が彼に現れてくださったのです。◇そして重要なことは、神の聖さに打ちのめされていることです。「ああ、私はもうだめだ。・・・」これは死を覚悟した彼の叫びです。彼は、主の聖さに触れて初めて、どうしようもない自分の汚れに気付かされているのです。それは、もう死ぬしかないほどの汚れとして認識されたのです。私たちは、イザヤが特別に罪深く汚れた人物だと考えるべきではありません。私たちに比べたら、彼はずっと清い生き方をしていたでしょう。しかし、その彼が、主の聖さに打ちのめされているのです。しかも重要なことは、ここから彼の本格的な預言者人生が始まっているということです。<もうだめだ>が出発点となっているのです。◇言うまでもなく、これが主のお取り扱いなのです。「私はまだ大丈夫だ」この思いが、主に拠り頼むことをどれだけ妨げていることでしょうか。神様を信じなくても生きてゆける。何処かに潜んでいるこの思いを打ち砕いていただかねばなりません。そういう意味で、イザヤの<もうだめだ>は、実に尊い「もうだめだ」なのです。私たちも、強がりを言っている場合ではないのでは?

《志を堅固にして》

2012-01-15

  志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。 (イザヤ26:3)

 主の救いと守りのうちに生きる者は、志の堅固な者でなければなりません。◇このことは先ず、次のことを教えてくれます。私たちは、何よりも主を信頼することにおいて堅固でなければならない、ということです。アッシリヤに壊滅的な打撃を受けようと、バビロンが国を滅ぼそうと、主の救いを信頼して堅く立って行かねばならないのです。主がこの町を救ってくださるのですから(1)、その主を信頼することにおいて揺らいではならないのです。現実の町エルサレムはやがて陥落してしまいます(BC586年)。しかし、そのとき同時に主の救いが現されるのです。私たちは、滅び行く世にあって、救われ、生かされてゆく者なのです。◇ですから私たちは、世の激しい動乱に心を重ねてはなりません。ヤコブは、主を疑う人を<風に吹かれて揺れ動く海の大波>にたとえています(ヤコブ1:6,7)。結局言えることは、心を何処に据えているかです。心を海の上(世)に載せている人は、海が荒れれば海とともに荒れ、心を主イエスに据えている者は、主の堅固さに支えられてゆくのです。主は世を去る前に<わたしは、あなたがたに平安を残します。・・・わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。>(ヨハネ14:27)と語られたのです。◇わたしたちは、このような<全き平安のうちに守られて>生きてゆくことが出来るのです。この時代もイザヤの時代と同じようです。どうなってゆくのか分かりません。見通しが立たない時代です。神の民が生きながらえてゆくのが神の奇跡としか思えない時代が来ているのです。改めて<志を堅固に>しましょう。

《主の守りの中に》

2012-01-08

  私たちには強い町がある。神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。(イザヤ26:1)

 24章でイザヤは、危機的な現状を明らかにしました。そして25章では、その状況の中でこそ主の救いのみわざが現されることを示しました。この26章では、救われたものの歩みがどのように展開されるかを語っているのです。◇この順番は重要です。私たちは先ず、自分の置かれている現状を正しく認識することから始めねばなりません。根拠のない楽観主義や、ことさらなる悲観主義に動かされてはなりません。主がこの時代をどう扱っておられるか。これが最も重要なことなのです。何故なら、この世界は人が動かしているものではなく、主なる全能の神の御手の中にあるからです。すべてのことは、神から出て神に帰するのです。主はこの地をさばき、さばきの中に救いを現されるのです。◇さて、そこで26章のテーマです。<私たちには強い町がある。>と始まります。この町こそ主の救いなのです。ここでは象徴的な言い方がされていますが、私たちはこの町の中に生きていかねばなりません。この町の外には滅びしかないからです。ヨハネはこれを<世と世の欲は滅びます。しかし…>(Ⅰヨハネ2:17)と告げています。私たちは、この町の中に、自分の人生の根拠を据えねばなりません。町の外に根拠を置いているなら、やがて敵に襲われた時にはひとたまりも無いのです。◇<城門をあけて、誠実を守る正しい民を入らせよ。>(2)と主は命じられます。私たちも、主の守りの中に入る必要があるのです。城壁の内側に、主の救いと守りがあるからです。外には滅び、内には救い。社会情勢が次第にこのような構図になってゆくことを覚えておかねばなりません。私たちも<誠実を守る正しい民>となって、この厳しい時代を生き延びてゆかねばならないのです。祝福を祈ります。


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