浦和聖書バプテスト教会

2月, 2012年

《限りない赦しの中で》

2012-02-26

  そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」 (ルカ23:34)

 主イエス・キリストの救いが、限りない赦しであることをどれだけの人が知っているでしょうか。◇先ずマタイ18:21,22に目を留めてみましょう。ペテロとのこのやり取りは、赦すことがどんなに難しいことかを覚えさせられます。赦すことより助けることのほうがずっとやさしいのです。しかし、赦せないことは罪なのです。そして今日、実に多くの人が赦せない罪を抱えて苦しんでいるのではないでしょうか。赦せないことから、決裂、復讐、争い・・・と人間関係が破壊してしまうのです。◇恐らくペテロも、赦すことに限界を感じていたのでしょう。<何度まで>という尋ね方にそれがよく感じられます。加えて<七度まででしょうか。>と訊いていることから、ここまで赦せばそれでよいという限度を想定していたのでしょう。それに対する主イエスの答えがv22です。これは、赦す回数の問題ではありません。主は、赦しには限界を設けてはならないと教えておられるのです。◇そして感動を覚えるのは、主は十字架の上で、みずからこのことばを実行されたことです(ルカ23:22)。自分を十字架にかけて殺す人たちのために、誰が神の赦しを求めることが出来るでしょう。むしろ、のろいのことばが出るのが自然な人間感情ではないでしょうか。しかし主イエスは、何も知らないで好い気になって自分たちの救い主を殺している人たちのために、神の赦しをとりなしているのです。◇言うまでもなく、私たちもこの主イエスのとりなしによって、罪赦され、救われているのです。主イエスのとりなしは、ことばだけのとりなしではなく、自分の命を犠牲にしたとりなしなのです。果てしない罪人が、限りない御赦しを受けているのです。

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《サタンの最期》

2012-02-19

  その日、主は鋭い大きな剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン・・・海にいる竜を殺される。(イザヤ27:1)

 主の全世界に及ぶ最後のさばきの中で、最も注目しなければならないことが、この聖句には明らかにされています。◇<レビヤタン>と呼ばれる巨大な竜が、主のさばきを受け殺されるのです。これが何を意味しているか、ほとんどの人が知っていることでしょう。聖書の中で、蛇とか竜が登場してくるときには、たいてい象徴的にサタンを指しています。これは、すでにエデンの園(創世記3章)からそうです。ですからこの預言は、終末におけるサタンのさばきを明らかにしているのです。サタンは、自分の死が近いことを知ると、<逃げ惑い>ます。しかし、主のさばきを免れることは絶対に出来ないのです。◇私たちは、このサタンに対する主の最終的なさばきが、私たちの最終的な救いと同時期に起こることを知っておかねばなりません。サタンの最期は、私たちの最終的救いとなるのです。これは、この地上の生活では味わい知ることの出来ない祝福です。この地上の生活では、私たちはサタンの誘惑に身をさらしながら生きてゆかねばなりません。サタンは、<今も不従順の子らの中に働いている>からです(エペソ2:1)。時には、その誘惑に陥ってしまうことすらあるのです(Ⅰペテロ5:8,9)。しかし、最終的な救いが実現すると、もうサタンはいないのですから、罪の誘惑はまったくありません。私たちには、主の栄光をほめたたえる喜びが全てとなり、それ以外には何もなくなってしまうのです。◇私たちは、この日を待ち望みつつ今を生きねばなりません。この地上の生活、私たちはあまりに多くのものを求めすぎていないでしょうか。だから、サタンの誘惑に陥りやすいのです。サタンとともに滅び去ってしまうものを聖別する必要があるのではないでしょうか(Ⅰヨハネ2:15~17)。

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《主の最後的さばき》

2012-02-12

  さあ、わが民よ。あなたの部屋に入り、後ろの戸を閉じよ。憤りの過ぎるまで、ほんのしばらく、身を隠せ。(イザヤ26:20)

 この聖句には、主が最終的なさばきを行われるとき、神の民がどうしていなければならないかが教えられています。◇まず、最終的な主のさばきがいかなるものなのかを確認しておかねばなりません。それは、この地上の罪に対する最後的な恐ろしい主の憤りの現われなのです。<見よ。主はご自分の住まいから出てきて>と言われているように、その時には、主はさばくために特別に地上に臨まれるのです。そして言うまでもなく、これまでのさばきが部分的、個別的であったのに対して、最後のさばきは全世界的ですべての人に及ぶのです。これを免れる者はひとりもいないのです。◇では、<その日>には、神の民はどうしていなければならないのでしょうか。みことばは<憤りの過ぎるまで、ほんのしばらく、身を隠せ。>と命じています。これは、出エジプト時の「過ぎ越し」を彷彿させます(出エジプト12章)。何もしてはいけないのです。否、身を隠すこと以外は何も出来ないのです。うしろの戸を閉じて、自分の部屋に入り、憤りが過ぎるまでただじっと祈っていなければならないのです。◇しかし、これが、最後のさばきの中で行われる主の救いなのです。これしかありません。人間的な手段を一切放棄して、血塗られた十字架のもとに身を隠す以外にないのです。<ほんのしばらく>と言われています。主はいつまでも怒っておられるお方ではありません(詩103:8,9)。憤りはすぐに過ぎ去ります。そうしたら、私たちは、自分の最終的な救いを確認するのです。主の救いは滅びの中に現されたのです。そして、多くの人が主の憤りの中に滅び去って行ったのに、私たちは、私たちを救ってくださった主に「ハレルヤ」と喜び叫ぶのです。

《義人の道》

2012-02-05

  義人の道は平らです。あなたは義人の道筋をならしてたいらにされます。(イザヤ26:7)

 この26章には、神の救いの中に生きる者がどのような歩みをするかが示されています。◇神の救いの中に入った者をいろんな言い方で表わしていますが(2,3)、この7節では<義人>と言っています。この言葉は一般的には「正しい歩みをする人」といったような意味で用いられていますが、新約聖書も含めて、聖書の中では「神の義に預かった人」の意です(参ローマ3:19~26)。要するに、神様の救いの中に入った人の別称と考えてよいでしょう。正しい歩みは、むしろ結果として付随するものなのです。ですから、義人の道が平らであるとは、神の救いの中に生きて行く者の人生を指しているのです。もう一度1,2節を振り返っておく必要があります。◇では、義人の道が<平ら>であるとは、どういうことを意味しているのでしょう。間違わないようにしなければなりません。これは、救われた者には初めから平らな道が用意されているということではありません。主なる神が<道筋をならして>くださるのです。みことばを想い起します。<すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。>(40:4,5)のです。私たちは、山にぶつかるとたじろぎます。谷に向かうと恐れを覚えます。多くの人が、そういった時に自分の人生を失うのです。しかし、救い主であられる神は<義人の道筋をならして平らに>してくださるのです。◇言うまでもなく、主のこの働きは、救いに入った者に対する特別なお取り扱いです。確かに主は、私たちに特別な愛を注ぎ、特別な責任を負っていてくださるのです。私たちは、このような特別な主の取り扱いがあるから、険しい山にもたじろがず、深い谷にも恐れないのです。行く手にどんな山が立ち塞がっても、どんな谷が口を開いていてもです。ハレルヤ。


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