浦和聖書バプテスト教会

3月, 2012年

《先ず神の愛を受けて》

2012-03-25

愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。 (Ⅰヨハネ4:7)

 

今私たちが置かれている状況は、何処においても、互いに愛し合い、助け合うことが切実に必要とされています。これは何も復興のためばかりではありません。毎日のように人身事故が起こり、現代を象徴するような孤独死が報じられています。この時代は深く病み始めているのです。無視できないひとつの要因を挙げることが出来るでしょう。それは、人と人とがつながりを失ってしまっていることです。なぜこんなにも互いに愛し合うことが難しくなってしまったのでしょう。◇もともと私たち人間は互いに愛し合う存在として創造されました。勿論、先ず創造主であられる神を愛し、また造られた者どうしが愛し合うことです。これは、人としての本分でした。ところが人は傲慢にも、神を愛することをやめてしまったのです。その結果、当然人を愛することも出来なくなってしまったのです。比喩的な言い方になりますが、十字架の縦の支えを捨てたので、横の関係が地に堕ちてしまったのです。ですから、愛の心はあっても、どのように愛したらよいか分からなってしまったのです。◇聖書は<愛は神から出ている>と伝えます。そしてその愛は、イエス・キリストの十字架の死に現されていると言うのです(9,10)。<なだめの供え物としての御子>ということばに心が惹かれます。私たちの罪に向けられた神の怒りを、主イエスはご自分の死をもってなだめてくださったのです。<ここに愛がある>と聖書は力説します。◇私たちは改めて、先ずこの神の愛を受け入れることから出発しなければなりません。十字架の縦のささえを確かなものにしなければ、どうして横の関係をささえることが出来るでしょう。神の愛を拒んだ人間どうしの愛が行き詰まるのは当然なのです。
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《クリスチャン人生の保証》

2012-03-18

神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。(出エジプト3:12)

 

誰だって、大きな人生の課題に向かう時には恐れや不安を覚えます。モーセもそうでした。◇なすべきことを主から伝えられたモーセは、まず「私はいったい何者なのでしょう。(11)と神に反論します。この気持ちはよく分かります。すでに見てきたように、仕事が仕事だからです。彼はなぜ自分がそんな歴史を動かすような大それた仕事をしなければならないのか、訳が分からなかったのです。と同時に、自分にはとてもそんな能力はない、と思ったのです。かつて見事に失敗した(2:11~15)ことを、また再び、さらにひどいかたちで経験することになるに違いない、と思ったのかもしれません。◇しかし神は、恐れ立ちすくむモーセに、<「わたしがあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。>とたじろぐことを許されなかったのです。この<しるし>ということばには注目しなければなりません。これは『これからの彼の人生をささえ、なすべきことを成し遂げさせるための保証』といったような意味なのです。全知全能の神が、常にともにいてくださる。これはなんと確かな保証であることでしょうか。これほど確かな保証が他にあるでしょうか。言うまでもなく、これがクリスチャン人生に与えられている保証なのです。◇普段この保証は目に見えるわけではありません。数字が挙げられているわけでもありません。モーセのこの後の歩みにおいても、視覚的にいつも主の臨在が現されたのではないのです。しかし、主を信頼する者の上には、いつも、何があっても、全能の主がともにいてくださるのです。この後のモーセの人生を辿ってみると、これを確認できるではありませんか。彼は、主が与えてくださった杖一本を持つだけでパロとの戦いに立ち向かうのです。ハレルヤ。

《主とお会いするために》

2012-03-11

「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」(出エジプト3:5)

 

主なる神が直接モーセに現れてくださいました。しかし、モーセはそれを知っていたわけではありません。◇モーセが引きつけられたのは、芝の中の火の炎でした。彼が不思議に思ったのは、火が燃えているのに芝が燃え尽きない特異な現象だったのです。彼はこの<大いなる光景>がどんなことかを確かめるために、それと知らずに主に近づいて行ったのです。<主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。>(4)とあります。無雑作に、ただ何となく興味本意に近づいてくるモーセに、主は、御自身と会見するためのそなえをさせているのです。◇まず何と言っても、主なる神とお会いする場所は聖くなければなりません。それは物理的な意味でそこがきよいということではありません。主が臨んでおられるから聖い場所でなければならないのです。私たちは、聖なる場所で聖なる神とお会いするのです。これは、礼拝の本質と言ってよいでしょう。◇ですから、汚れたままで主に近づくことは出来ないのです。<あなたの足のくつを脱げ>という主の命令は、このことを意味しているのです。直接地面に接し、地の汚れに最も触れているのはくつです。汚れた土足のまま主に近づくことは、聖なる主に汚辱を与えることになるのです。◇主イエスが、十字架につく前に、弟子たち一人ひとりの足を洗われた記事を想い起します(ヨハネ13章)。そのとき主はペテロに「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」と言われたのです。私たちが礼拝に出席するとき、主イエスと何の関係もない礼拝にならないよう注意しなければなりません。聖なる場所で、聖なる神と、聖くされた私たちがお会いするのです。

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《神が現われるとき》

2012-03-04

  モーセは・・・神の山ホレブにやって来た。すると主の使いが彼に、現われた。(出エジプト3:1,2)

 確かにこれは特別なことです。神は、いたずらに意味もなく現われることはなさいません。◇このことは、私たちの普段の日常生活に神が臨んでおられないと言うことではありません。主なる神は、何処にあっても、何があっても、常に信じる者とともにいてくださるのです(詩139)。しかし、それは、隠れたかたちでなされているのです。けれどもこの時は違います。モーセは、目に見えるかたちで神の顕現を経験するのです。神は、燃える芝の中に現れました。何のためにでしょう。それは、モーセをミデヤンの地からエジプトの地に『引き出す』(モーセの意)ためだったのです。◇これまでのモーセの人生を簡単に振り返ってみましょう。彼は、死ぬはずのナイル川から引き出されて、何と王家のひとりとして大人になりました。しかし、およそ40歳の頃、同胞イスラエルをエジプトの苦役から救うために立ち上がったのです。しかし、結果は見事な挫折でした(2:11~14)。それどころか、彼はパロ王の怒りを買い、その身ひとつでミデヤンの地に逃れてきていたのです(2:15)。この地での生活は、それなりに祝福されました(2:16~22)。何よりも、戦いのない穏やかな生活が続いていたのです。◇このままだったら、何と幸せだったことでしょう。しかし神は、再び彼をエジプトの地に引き出すために、特別に臨まれたのです。もち論、同胞イスラエルを救い出すためです。待っているのは生死を賭けたパロとの対決です。新約聖書は、この経緯を簡潔に記しています(ヘブル11:24~26)。何が幸せなのか、考えさせられるではありませんか。誰だってミデヤンの野にとどまっていたいのです。しかし、そうしてしまったら、彼の人生は戦わずして敗北なのです。幸せかもしれませんが、敗北なのです。

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