浦和聖書バプテスト教会

5月, 2012年

春の特別伝道集会(Ⅰ,Ⅱ)

2012-05-27

 

あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。(ヘブル10:36)

 

 

最近各地で、ちょっとした忍耐を欠いているために、偶発的で悲惨な事件が発生しています。忍耐を欠いている姿は、現代人のひとつの弱さなのかも知れません。◇信仰生活にも忍耐が必要です。忍耐を欠いた故に、せっかくの恵みを台無しにしてしまうというようなことが現実に起こっています。知らず識らずのうちに時代の子になってしまっていないか、自分を見つめ直す必要があるようです。◇しかし、忍耐はそう簡単に身につくものではありません。患難を通して学び取られていく神の訓練の賜物なのです(ローマ5:3)。小さな患難を経て、より大きな患難に耐えられるようにされていくということでしょうか。私たちは、このような尊い神のお取り扱いを軽んじないようにしなければなりません。心のこれからを考えるとき、こんなことも含んでおかねばならないでしょう。祝福を祈ります。

 

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《何のための祝福か》

2012-05-20

神が私たちを祝福してくださって、地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように。(詩篇67:7)

 

 

先ずv1とv2のつながりに注意してほしいと思います。v1で著者は、神にあわれみと祝福を祈り求めています。注目はv2に示されているその理由です。◇私たちは、かつて、このような理由で主の祝福を求めたことがあるでしょうか。v1では<私たちを・・・>であり<私たちの上に>ですが、v2ではそれが<地の上に>であり<すべての国々の間に>になっています。即ち、自分たちが祝福されることが、全世界の人々の救いになるようにと祈っているのです。こういう祈りの姿勢には注目しなければなりません。自分たちが受ける祝福が、最終目標になっていないのです。むしろ、そこから出発して行くのです。◇神様が私たちを祝福してくださる本来の目的がここにあることを覚えねばなりません。私たちの求めは、あまりにも自己目的的になってしまっていないでしょうか。自分たちの利益のため、自分たちの繁栄のため、自分たちの幸せな生活のため等々。それは決して求めていけないものではありませんが、それが最終目標になっているところに、この詩篇を学ぶ必要があるのです。改めて「祝福は主の栄光が現れるため」という根本原則を覚えねばなりません。◇主イエスが、あの『山上の説教』の中で教えられた「主の祈り」(マタイ6:9)を想い起す必要があります。主は、真っ先に<御名があがめられますように>と祈るようにと教えておられます。この祈りがすべてを包み込んでいなければならないのです。この祈りを欠いているならば、それに続く後の祈りはすべて成り立たないのです。私たちもこの地上の生活で様々なことを祈り求めねばなりませんが、すべての祈りにこの求めがなければなりません。自己目的で終始する祈りで終わっていてはなりません。

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《賛美の心を呼びさます》

2012-05-13

私のたましいよ。目をさませ。十弦の琴よ。竪琴よ。目をさませ。私は暁を呼びさましたい。(詩篇57:8)

 

私たちが主をほめたたえる姿勢を失っているとするなら、それは決して健全な姿とは言えません。◇まず、ダビデがどんな時に主を賛美できなくなってしまったかを見ておきましょう。これはすでに表題において明らかにされていますし、この詩篇のv1~6までにその状況が詳しく語られています。彼は<私は、獅子の中にいます。>と告白しています。私たちが想像できないほど危険な状態にあったことはまちがいないでしょう。こういう時に主をほめたたえることが出来なくなってしまうのを、誰も責めることはできないでしょう。しかし、それでも、賛美の心を失っている姿は、決して好ましい姿ではないのです。◇このことに気付いたダビデは、一大決心をします。それがv7です。賛美の心は他力本願で与えられるものではありません。心を定めて立ち上がる必要があるのです。信仰生活には必ずこういう側面があることを知っておかねばなりません。さらに加えて、ダビデはその思いを現実化するために自分のたましいに向かって呼びかけるのです。<目をさませ>と。さらに、心の思いは具現化しなければいけません。思いだけで過ぎてしまうから実を結ばないのです。彼が自分の立琴に向かって同じように呼びかけていることの重要さを覚えねばなりません。彼の心は立琴になり、立琴は彼の思いを奏でるのです。◇賛美の心は、このようにして取り戻されて行きました。私たちも、何らかの理由で一時的に賛美の心を失うことがあっても、決してそれをそのままにしておいてはならないのです。自分のたましいに向かって、また立琴に向かって<目をさませ>と呼びかけねばならないのです。今、全体的に、クリスチャンたちにそういう時が来ているのではないでしょうか。
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《重荷を負ってくださる神》

2012-05-06

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)

 

 

主イエス・キリストの召きのことばです。◇『重荷を負って疲れ果てた人』ということばに心が惹かれます。これほど的確に私たちの姿を言い表していることばは他にないでしょう。私たちはみんな、何らかの重荷を負わせられて疲れを覚えているのです。「元気がない」とか「沈んでいる」とか言われる背景には、この疲れがあると言えないでしょうか。真面目に生きようとすればするほど、疲れの度合いも増してゆくようです。仕事の疲れ、人間関係の疲れ、その他諸々の疲れを背負って私たちは生きているのです。◇しかし、感謝なことに、主イエスはそういう私たちを召いてくださるのです。<わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。>と主は言われます。v29では<そうすればたましいに安らぎが来ます。>とも言われます。今、私たちに最も必要なのは、この『たましいの安らぎ』ではないでしょうか。心底疲れた者には、心底いやしが必要なのです。憂さを晴らしたり、快楽で紛らすような表面的な方法は、かえって渇きを募らせるだけです(ヨハネ4:13)。多くの人が、知らないからそうしてるのです。◇では、どのようにして、この「たましいの安らぎ」が与えられるのでしょう。その答えがv29です。主イエスと同じくびきを負うことです。これまで負ってきた自分のくびきを離れて、今度は主イエスのくびきに加わるのです。v30では<わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。>と主は言われます。ちょうど良いということです。重すぎるから疲れるのです。軽すぎたらむなしいのです。私にちょうど良い。重すぎて担えない分は、すべて主が補ってくださるのです。

 
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