浦和聖書バプテスト教会

6月, 2012年

《十字架上の祈り》

2012-06-24

そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」  (ルカ 23:34)

 

上記のみことばは、十字架上におけるイエスの祈りです。◇この祈りは現代の私たちにも感動を与えます。それは「彼ら」という言葉が自分と重なるからです。何故でしょうか?イエスを十字架につけた人たちと私たちに一つの共通点があるからなのです。生れながらの人間は自分勝手に生きています。その結果、すべての人が神に対して罪を犯しています(ローマ3:23)。実はこの罪がイエスを十字架につけたのです。ですから、この祈りは全人類に対する祈りなのです。この祈りから2つの事を覚える事ができます。◇第一に、この祈りは神への絶対的な赦しを求めた祈りであると言う事です。イエスは自らを殺そうとしている罪人の為に祈られました。これは死を前にした人の祈りとは思えません。罪人たちに対しての怒りや、憎しみがないからです。それどころか、神に対して厳しい口調で〈父よ。絶対に彼らをお赦しください。〉と言っています。ここにイエスの愛があるのです。イエスは、最後まで神の絶対的な赦しを求めたのです。◇第二に、この祈りはイエスを信じる者に実現していると言う事です。〈しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:8)〉この祈りは、イエスが私たちの罪を背負って十字架で死なれ、身代わりとなられた事により実現しました。もはや神は怒っていません。それどころか、イエスを信じる者を完全に赦して下さるのです。これほどの愛があるでしょうか?主イエスは死を持って赦しの道を定めてくださったのです。
(文:実成伝道師)

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《何故みことばか》

2012-06-17

聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。 (Ⅱテモテ3:15)

 

誤解しないようにしなければなりません。救いは決して聖書の戒めを守ることによって与えられるのではないのです。◇聖書のことばは、私たちに、ある特別な<知恵>を与えてくれるのです。それは、人が頭の中で考え出せるような知恵ではなく、誰もが及びもつかないような特別な知恵です。神の特別啓示です。この知恵が、私たちをキリスト信仰へと導くのです。知るということが、信じるということにつながらざるを得ない、そういう知恵です。直接的、最終的に私たちに救いを受けさせるのは、このような意での知恵と信仰なのです。◇では、この知恵は何処から出発するのでしょう。それが先主日お話させていただいた点です(ローマ3:20 5:20)。しかしこれは、自分に罪があることを知るにとどまらず、自分が救われねばならない存在であることを知ることでもあるのです。次に聖書は、私たちが救われるために、神が何をなしてくださったのかを知らせてくれます。キリストの身代わりの死と復活です。ひとことでまとめれば、聖書は人間の真実な姿と、それに対する神の救いのみわざを知らせているのです。◇加えて覚えたいことは、この箇所で<知恵>(知識ではなく)ということばが使われていることです。単に、知るだけで終わってないのです。私たちを真実に救い、さらに実際に救われた生活をさせる力があるということです。ペテロもまったく同じことを語っています(Ⅰペテロ1:23~25)。神のことばは、今も生きていていつまでも変わることなく、私たちを先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出し(18,19)、まったく新しく生まれ変わらせることが出来るのです。ハレルヤ。

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《律法の今日的意義》

2012-06-10

律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。(ローマ5:20)

 

「今はキリストの恵みの時代、もはや律法に縛られることはない」とは、よく聞くことばです。本当にそうなのでしょうか。今日では、もう律法は不要なものなのでしょうか。◇ある有名な俳優が「不倫は文化である」と言ったそうです。今でも時々話題に上ります。しかし、神のことばである聖書は、不倫は姦淫の罪であると明言しています(出エジプト20:14)。この違いには注目しなければなりません。人は、神が罪と定めたものを勝手に罪でないものにしてしまうのです。不倫が文化であるなら、決して悪いことではありません。ひとつの文化的な行為なのです。◇このようにして、人は、神が罪と定めたものを、勝手に都合よく、罪でないものにすり替えてしまうのです。その結果、事実は罪を犯していても、罪意識を持つことはありません。罪意識がなければ楽です。キリストの十字架は必要ないし、悔い改める必要もありません。実はここに、律法の今日的な意義が浮かび上がってくるのです。律法は、私たちに罪を知らせるために与えられているのです。◇パウロのあかしに目を向けましょう。ローマ7:7~12。これは、パウロがかつてはむさぼっていなかったという意味ではありません。むさぼっていたのに、それに気がつかなかった、気にも留めなかったという意味です。神の律法を捨て去った現代人の姿です。罪を犯している事実を背負っているのに、罪意識がないのです。これを現代人は「自由」と言うのです。しかし、自分がどう思おうと、罪は罪です。今、このような無意識の罪が、私たちの心を蝕んでいるのではないでしょうか。<罪から来る報酬は死です。>(ローマ6:23)

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《キリストの平安》

2012-06-03

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。  (ヨハネ14:27)

 

現代は平安が失われていく時代です。けれども、キリストは〈わたしの平安を与えます。〉と言いました。それは一体何なのでしょうか?◇第一に、キリストの平安は世が与えるのとは全く違います。キリストはv27〈わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。〉と言いました。人間は経済的、人間(家族)関係、健康的な面、等が満たされていると平安を感じます。しかし、このような平安は‘死んだらおしまい。’であり、死に対しては何の効力も持っていません。実は、こうした一時的な平安を長い年月かけて求めているのが私たち人間なのです。ところが、死に勝利する平安があるのです。それがキリストの平安なのです。◇第二に、キリストの平安は信じる者に与えられる、たましいの平安であります。キリストはv27〈わたしはあなたがたにわたしの平安を与えます。〉と言われました。彼を信じる者は、この平安を頂く事ができます。それは、彼が〈その死によって、・・・一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人人を解放して(ヘブル1:15)〉くださったからなのです。2000年前の十字架は死を滅ぼし、死の奴隷となっている人間を救う為にあったのです。さらに、十字架は〈民の罪のために、なだめがなされるため(ヘブル1:17)〉でもありました。神は罪を持つ人間に怒っていましたが、十字架によって赦されたのです。◇このような素晴らしいたましいの平安が、私たちに提供されているのです。十字架の死と復活を信じて、この平安を頂きましょう。
(文:実成 伝道師)

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