浦和聖書バプテスト教会

8月, 2012年

《家族が救われるために》

2012-08-26

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)

 

すばらしい約束のみことばです。しかし私たちの現実はまだこれを見ていません。どうしたらよいでしょう。◇先ず何よりも、私自身が救いの確信を持つことです。<あなたの家族>の前に<あなたも>と言われています。私がぐらぐらしていたら、どうして家族を救いに導くことができるでしょう。困難な状況や見通しのきかない現実に、私自身が救いの確信を見失ってはならないのです。ぐらぐら揺らぐ石垣に上にどうして石を積み重ねることができるでしょう。◇第二に、福音を伝えることです。福音を知らない人が救われることは絶対にないからです。<聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。>(ローマ10:14) 信じることを要求する前に、福音を伝えねばならないのです。私たちが力を尽くさねばならないのは、この点です。◇第三に、聖霊の働きを仰ぐことです。ひとりの人が救われるのは、百パーセント神の働きであることを改めて覚えねばなりません。事は人間の熱意や努力ではないのです(ローマ9:16)。聖霊なる神が働かれるとき成就します。ニコデモのお話を想い起さねばなりません(ヨハネ3:3~5)。人は努力でもう一度母の胎に入って生まれることはできないのです。しかし、<風はその思いのままに吹く>(同8)のです。◇<あなたもあなたの家族も救われます。>これはすばらしい約束です。この約束が成就するのを自分の家族において見たいものです。「主の日」が近いと言われています。きっとそうでしょう。その日が来る前に、何を置いてもしなければならないのが、自分の家族を救いに導くことではないでしょうか。
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《主イエスを知るには》

2012-08-19

 

イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」 (ヨハネ1:39)

 

一見するとこの箇所には、最初の弟子と主イエスとの滑稽とも思われる会話が記録されています。少なくとも、会話は噛み合っていません。ヨハネは何故、こんなどうでもいいような記録を残したのでしょう。◇こんなことを考えてみましょう。もし師であるBヨハネから「見よ。神の小羊」と主イエスを指し示されても、そのままそこに留まってしまっていたら、はたして本当に主イエスを知ることができたでしょうか。師のことばを信じ受け入れたとしても、真の意味で主を知ることはできなかったのです。実はこれがある人々の姿なのです。主イエスを神の小羊(贖い主)と信じてはいます。しかし、生きた血の通った主を知らないのです。◇重要なことばが繰り返し使われていることに気付きます。<・・・聞いて、イエスについて行った>(37)です。これこそ主イエスを知るための必要絶対条件なのです。聞いて知っているのと、触れて知るのとでは訳が違います(Ⅰヨハネ1:1)。恐るおそるついて行ったふたりの弟子に、主イエスも<ついて来ること>を求めておられるではありませんか。滑稽な会話どころか、主は最も大切で不可欠なことを求めておられるのです。v39の続きには<そこで、彼らはついて行って・・・知った>とあります。さらに<・・・彼らはイエスといっしょにいた>とあります。◇真の信仰生活とは、主イエスについて行って、いっしょにいることです。イエスについての説明や救いについての説明を聞いて知るだけにとどまってはいけません。救い主が指し示されたなら、そのお方について行くことです。私たちは、聞いて知っている信仰から触れて知っている信仰へと向かわねばなりません。暖かくも冷たくもない主イエスにとどまっていてはならないのです。
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《神の正義を貫く》(2)

2012-08-12

 

彼は人をやって、牢の中でヨハネの首をはねさせた。そして、その首は盆に載せて運ばれ(マタイ14:10~)

 

これを言ったら殺されると分かっているのに、敢えてそれを語る人が何処にいるでしょう。Bヨハネはそれをしたのです。◇世の中では、こういう人を「愚か」と評するでしょう。「正義を貫くのは結構だが、そこまでやるのはバカだ。殺されてしまったら、元も子もないではないか」と。だいたい私たちが主張する正義は、自己保身や自己利益を目的としてるものがほとんどです。時には、クリスチャンが正しい信仰を主張する場合でもそうです。神の正義を主張しながら、実は自分の利を考えているのです。私たちは、こういう生き方から脱却しなければなりません。◇ヨハネの生き方を学び取らねばなりません。彼は、国主ヘロデの不正な結婚を責めたのです。神の正義に背くからです。と言うより、世の中の良識から考えても、とんでもない罪が行われていたからです。しかし、ほとんどのユダヤ人が見てみぬ振りをし、口を噤んでいました。ヘロデの怒りに触れたらどうなるか分かっていたからです。こういう状況の下で、ひとりヨハネだけが神の正義を主張したのです。v5には<ヘロデはヨハネを殺したかったが・・・>とあります。ヨハネは死をも恐れず、義を義とし、不法を不法としたのです。◇今のこの時代、私たちクリスチャンに求められているのは、こういう生き方ではないでしょうか。自分が有利になるための正義なら誰だって主張できます。<損になっても、立てた誓いは変えない>(詩15:4)。こういう生き方がクリスチャンの生き方でなければなりません。私たち日本のクリスチャンは、潔く神の正義を貫くことができるのではないでしょうか。身を切ってこそ神の正義は貫くことができるのです。これが十字架の奥義ではないでしょうか。
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《B・ヨハネという生き方》

2012-08-05

 

彼は告白して否まず「私はキリストではありません」と言明した。(ヨハネ1:20)

 

彼の生き様のすばらしいところは、徹底して神からの使命を生き抜いた点ではないでしょうか。◇まず彼は、自分の使命から来る立場を見事に弁えていました。ユダヤ人たちから「あなたは誰か」と尋ねられた時、彼はイザヤ書40:3のみことばが自分であると明言しています。こんなに明確に自分の使命を知っている人はそうはいません。驚くばかりです。このように神からの使命を弁えていたからこそ、彼は決して主イエスの上に立つことなく、徹底して自分の立場を貫いたのです(27)。真の謙遜は、徹底して神の使命に立つことから生じるのです。決して世に言う道徳的特質ではないのです。◇次に感心させられるのは、この使命を貫くことによって必然的に生まれる徹底した自己否定です(19,20)。どうやら当時のユダヤ人の中には、ヨハネの風貌に魅せられて(マタイ3:4)、彼をキリストかも知れないと思い違いをしていた人がいたようです。ヨハネはこの点においても、自分を有利にするような曖昧さを微塵も残していません。きっぱりと「私はキリストではありません」と言い切っているのです。神の御旨に徹底して従うから、このような自己否定となるのです。◇加えて最期に覚えたいことは、彼は徹底してキリストを指し示しています(29)。自分につながっていた弟子たちが、自分から離れて主イエスに付いて行く。さびしくなかったのでしょうか。たとえそういう人間的な感情があっても、その感情に動かされてしまったら神からの使命を果たすことはできません。独占欲は罪です。キリストを指し示していながら同時にこの独占欲に支配されていないか、吟味する必要があるのです。聖い自己否定が真にキリストを指し示すことができるのです。アーメン。
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