浦和聖書バプテスト教会

10月, 2012年

《信仰による救い》

2012-10-28

 

それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。 (Ⅰコリント1:21)

 

聖書は何故「救いは信仰による」と啓示してるのでしょう。

◇先ず、神ご自身がそのように定められたからです。ここでの<定める>は「よしとされた」の意です。神がよしとされたものを、人は変えることはできません。従がう以外にないのです。ところが愚かにも、人はいろんな方法で救いを得ようとしています。神が定められた方法を捨てて、自分で勝手に自分の方法で救われようとしています。だから、救われるわけがないのです。道はひとつ、信仰による以外にはないのです。それは、救ってくださる神が定められたのです。<人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。>(ローマ10:10)◇次に示されている理由は<この世が自分の知恵によって神を知ることがない>からです。もしこの世が自分の知恵によって神を知ることができるなら、もっと多くの人が、もっと早く救われているでしょう。しかし現実は決してそうなっていません。知者や学者の中にクリスチャンが多いとは言えないのです(26)。人は信仰によって救われなければ決して神を知ることはできません。知ることができたから信じるのではなくて、信じて救われたから知ることができるのです。神様はそういう方です。◇では最後に、何を信じたらよいのでしょう。聖書は<宣教のことばの愚かさ>と言います。またv23では<十字架につけられたキリストを宣べ伝える>と言われています。ここにすべてがあります。信仰とは、漫然と神を信じることではありません。神の存在を認めることでもありません。キリストの十字架の贖いを信じることなのです。これが、神がよしとされた唯一の方法なのです。人の目に、いかに愚かと映ろうとも。
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《強く、雄雄しく歩む》

2012-10-21

 

わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ、雄雄しくあれ。・・・ (ヨシュア1:5~6)

 

人間は弱いです。ですから、上記のみことばのように、中々歩めません。ところがヨシュアはそのように歩みました。  ◇このみことばがヨシュアに与えられた時、前指導者モーセは世を去り、今度は彼がイスラエルを導いていかなくてはならないという状況でした。ですから、ヨシュアは非常に恐れたに違いありません。それは、主が三度も〈強くあれ。雄雄しくあれ。(v6、7、9)〉と励まさなければならなかったほどでした。人間は恐れるものです。けれども、聖書を見ると彼は一貫して強く雄雄しく歩んでいます。どうしてなのでしょうか?2つの真実を覚えたいと思います。◇第一に神様はいつもともにいてくださるという真実です。v5〈わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。〉恐れるヨシュアに、主はこう励ましました。ヨシュアはモーセの従者ですから、モーセとともにおられる主を人一倍見てきました。その主が今度は自分といてくださると言うのです。彼は心の底からこのみことばを信じました。これが重要なのです。◇第二に神様がともにいてくださると信じた者は、強く雄雄しく歩めるという真実です。主はヨシュアに三度も〈強くあれ。雄雄しくあれ。〉と語りました。ヨシュアは確かに恐れました。けれども、主がともにいてくださると信じたので、強く雄雄しく歩む事が出来たのです。信仰者は主がともにいてくださると確信して歩み出すならば、必ず、強く雄雄しく歩めるのです。◇私たちはどのように人生を歩んでいるでしょうか?もう一度考えてみる必要があると思います。
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(文:伝道師 実成)

《子孫に何を語り残すか》

2012-10-14

  神よ。私たちはこの耳で、先祖たちが語ってくれたことを聞きました。あなたが昔、彼らの時代になさったみわざを。(詩篇44:1)

 

ユダヤ人の強さは、先祖が彼らに語り伝えた神のみわざを聞いて知っていたところにあります。◇どうやらここでは、出エジプトとカナン定着の歴史的出来事を指しているようです(2)。しかもそれが、先祖たちの頑張りや努力によってではなく、まったく神の働き、神の恵みであったと伝えられていたのです(3)。これは、彼らの主に対する信頼をどれほど強いものにしたことでしょう(6)。自分に頼らず、主を誇る信仰こそ、彼らの心の根底にあった強さなのです。◇この先祖から受け継いだ知識があったからこそ、彼らは厳しい現実にもめげなかったのです(9~16)。彼らは、この苦しみの中で主を忘れることもなく、主の約束を疑うようなこともしませんでした(17)。彼らの心は揺るがず、主の道からそれることもなかったのです(18)。さらに彼らは、切実な思いを込めて主の救いを求めることができたのです(23)。先祖から伝えられた神のみわざを知っていたからこそ、このような歩みが展開されているのです。◇翻って、私たちはどうでしょうか。子孫にどんな神のみわざを語り残すことができるでしょうか。あまりにも乏しい自分の姿に唖然とします。私たちはまだ、ペテロが語っている贖いの段階にたどり着いたばかりなのではないでしょうか(Ⅰペテロ1:18,19)。しかし、落胆してはいけません。私たちは、父祖たちから何も伝えてもらえなかったけれども、子孫には語り残すことができるはずです。私たちはすでに<贖い出されて>いるのです。子孫に<銀や金のような朽ちる物>を残すのではなく、少なくとも<傷もなく汚れもない小羊のようなキリスト>は語り残せるのではないでしょうか。
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《愛と赦しの父》(3)

2012-10-07

  ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って・・・(ルカ15:20)

 

きょうは、放蕩息子を迎え入れた父親の姿に目を留めてみたいと思います。◇しかしその前にひとつだけ、この息子の悔い改めに関して触れておかねばならない点があります。それは、彼が心の中で決意したこと(19)と実際に父の前で告白したこと(21)との間に違いがあるからです。<雇い人のひとりにしてください>が欠けています。ある人たちは、これは思わず漏れてしまったことだと考えます(脚注)。しかし主イエスは、意図的にこれを抜いたのではないでしょうか。つまり、彼の悔い改めは、願い事を口にすることが出来ないほど真剣で深いものだったということでしょう。ただひたすら赦しを乞うだけだったのです。◇こういう悔い改めを父が軽んじるはずがありません。落ちぶれて帰ってきた息子を<かわいそう>に思っただけではないのです。もち論それも親の心でしょうが、<私は天に対して罪を犯し>と神の前に罪を悔い改めている彼の姿に、父は大きな喜びを覚えているのです。このことは、父がしもべたちに最高の祝宴を命じていることから分かります(22,23)。<一番よい着物>です。<手に指輪>です。そして<肥えた子牛>です。何もかも、最高の喜びを現しているのです。これは前の二つのたとえとまったく同じです。◇主イエスは、このたとえ話の最後に、父親をして<この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかった>と言わしめています。これぞまさに、天の父の私たちに向けられたことばです。私たちもかつては父のもとから遠く離れ<死んでいた>者でした。しかし今は、父のもとに立ち返って<生き返って>いるのです。そればかりか、父の子どもとされているのです。
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