浦和聖書バプテスト教会

11月, 2012年

《苦難からの救い》(1)

2012-11-25

 

  バビロンから出よ。カルデヤからのがれよ。喜びの声を上げて、これを告げ知らせよ。(イザヤ48:20)

 

この48章には、バビロン捕囚からの救いという実に大きな歴史的出来事が預言されています。主なる神は、苦難の中にいた民に<バビロンから出よ。・・・のがれよ。>と力強く呼びかけておられるのです。◇もし私たちがここに現実的な主のメッセージを聞こうとするなら、それは決してむずかしいことではありません。時代は異なりますが、私たちも今、同じような苦しみの中に閉じ込められているからです。もち論その事由は人それぞれですが、全体的に見て、この時代は今、苦難のうちに閉じ込められているような様相を呈しているのではないでしょうか。私たちは「それが時の流れだ。どうすることもできない。」といって諦めている理由はまったくないのです。◇救い主なる神が<バビロンから出よ。・・・のがれよ>と命じておられるのです。いつまでも同じ苦しみの中にとどまっている理由はまったくありません。イザヤと同時代の預言者ホセア、まったく同じメッセージを告げています(ホセア6:1)。愛とあわれみの主は、必ず解放の時、救いの日をそなえておられるのです。なぜなら「主がそのしもべを贖われた」からです。苦しみの時は終わります。それは過ぎ去るのです。今までもそうでした。これからもそうなのです。◇全能の主がこのように呼びかけておられるのですから、私たちはこれに応えるべきではないでしょうか。<出よ>と言われたのだから出る。<のがれよ>と言われたのだからのがれる。これが主を信頼している者の姿ではないでしょうか。信仰生活は実に単純明快です。主の御ことばに応じて「そうしよう」と意志することです。この志(こころざし)に、今度は全能なる主が答えてくださるのです。バビロン脱出の先頭にたって出て行くのは誰でしょうか。
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《人生の決断》

2012-11-18

 あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。 (ルツ1:16)

 

人生には決断せねばならない時があります。ルツは人生の決断を迫られた時、どのように決断したのでしょうか。  ◇実は、ルツには2つの決断が出来ました。一つはv8〈あなたがたは、それぞれ自分の母の家へ帰りなさい。〉という姑ナオミの勧めた決断でした。もう一つは、ナオミと一緒にイスラエルに行くという決断でした。前者を選んだなら、何不自由ないこの世の幸せが待っていましたが、後者には幸せと思えるものは何もありませんでした。けれどもルツはそれを選んだのです。◇どうしてなのでしょうか?そこにはルツの信仰が関わっています。v15〈あなたの弟嫁は、自分の民とその神のところへ帰って行きました。〉姑はルツにこのように伝え、帰郷させようとしました。ルツにとって帰郷は、自分の信じる主を捨てて、モアブの偶像を拝む生活を意味していました。彼女は、そうした生活に耐えられなかったのです。何故耐えられなかったのでしょうか?それはルツのことばから分かります。v16〈あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。〉ルツは帰郷を迫る姑に対して、自らの信仰を告白しました。これは、単なる信仰告白とは違います。現実の状況を踏まえて帰郷させようとしている姑に対して、心の底から「私の神は、あなたの神である主なのだ。」と強く訴えた告白なのです。そして、これがルツの信仰なのです。◇彼女は最も苦しい状況で迷いもせず「主こそ私の神です。」と告白し、信仰だけの不幸に思える人生を決断しました。 ですから、後に本物の祝福を得たのです(マタイ1:5-6)。
(文:伝道師 実成)
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秋の特別伝道集会

2012-11-11

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに神の愛が私たちに示されたのです。(Ⅰヨハネ4:9)
 

■テーマ

神との絆  -人と人、そして神-

 

■日程

・2012年11月11日

第1集会:10:30〜12:00(メッセージ録音はこちら)

第2集会:14:30〜16:00(メッセージ録音はこちら)
 

■講師

井口拓志 牧師(立川聖書バプテスト教会)

 

 

■お招きのことば

「絆」とは、たち切ることのできない強いつながりを意味します。普通これは人と人との関係に用いられる言葉ですが、今回はこれを神との関係において考えてみようという訳です。

 

聖書の中に、こんなことばが出てきます。

 

人の歩みは主(神)によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。

その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。(詩篇37)

 

この度の震災で、私たちはいろんな所で人と人との感動的な絆を見ました。普段は何の関係もない人々が、強い絆で結ばれたのです。「我々日本人は、まだ見捨てたものではない。」多くの人が、こんな感想を漏らしました。

もし、こういう人と人との絆の上に、上記に示されているような神との絆を結べたら、私たちの人生はどんなに素晴らしいものになることでしょうか。

 

どうぞ、気兼ねなく集会にお出掛けください。神様からの祝福がありますように。

 

浦和聖書バプテスト教会

牧師 川島真理(かわしま まこと)

 

《信仰と告白》

2012-11-04

 

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ10:10)

 

確かに信じることは心でなされ、告白することは口でなされることです。しかし、それはどのような関わりの中にあるのでしょうか。◇先ず、この聖句の一般的になされている誤った解釈について少し触れねばなりません。それは、告白を救われるための必要条件として捉える解釈です。この解釈によれば、心に信じただけではダメで、口で告白しなければ救われないのです。この誤りは、告白がなくても救われると考えている人たちも同じと言えます。パウロはそんなことを伝えているのではないのです。正しい解釈は、ヤコブ書が丁寧に説き明かしてくれている「信仰と行い」の関係で捉えることができるでしょう(ヤコブ2:14~26)。◇しかしながら、人の現実はそうすっきりしているわけではありません。ふたりの人物に目を留めてみましょう(マタイ26:69~27:5)。ペテロは、心で信じていましたが、告白では失敗した人です。しかし、彼が救われていないと誰が言えるでしょう。彼は、心底からの悔い改めに導かれているのです。一方ユダは、告白という点では「私は12弟子の一人です」となっていますが、その心には初めから信仰はなかったのです(ヨハネ6:64、70~71・13:10,11) ですからイエスを裏切った後も、「私は悪いことをしてしまった」という倫理的な後悔はあっても(マタイ27:4)、悔い改めは生まれて来ないのです。イエスとの絆は初めからなかったのです。◇ふたりの違いは、文字どおり天と地の違いです。もち論、私たちはペテロです。<心に信じて義と認められている>からです。心に神の義を頂いている人は、たとえ口で失敗しても、決して救いから漏れることはないのです。ペテロは、信じたその時から、主の守りの内に置かれていたのです(ルカ22:32)。
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