浦和聖書バプテスト教会

1月, 2013年

《神の救いを受けるために》(1)

2013-01-27

 

しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。(ローマ3:21)

 

神の救いを受けるためには、神の前に義と認められねばなりません。罪ある者は、神の国を相続することはできないからです。では、どうしたら義と認められるのでしょう。◇先ず最初に頭に浮かぶのは、神の戒め(律法)を守って正しい人になることだ、という考えです。これは今日でも、人々の心に根深く残っている考え方です。しかし、聖書はこの考え方をまったく否定しています(20)。この方法で義と認められようとするなら、すべての律法を、しかも完全に守らなければならないからです(ガラテヤ3:10,11)。それができる人はひとりもいません。この点で、全世界は神のさばきに服しているのです。しかも、人はそのさばきに対して、正当な何の弁明もできないのです(19)。◇当時のユダヤ人、特にパリサイ人の決定的な誤りがここにあります。彼らは、人にできないことを為そうとしていたのです。しかも、もっと悪いことに、自分にはそれができていると考えていたのです。これは虚偽以外の何ものでもありません。主イエスが、激しい怒りをもって彼らを責めたのには(マタイ23章)それなりの理由があったのです。私たちは、この誤りを繰り返さないようにしなければなりません。◇<律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。>(20b)。しかし、これは必要なことなのです。律法によって自分が罪人であるということが分かったからこそ、私たちは救い主(イエス・キリスト)に向かうのです。即ち、<イエス・キリストを信じる信仰による神の義>(22)です。人々が何と言おうと、これが神の定めた唯一の救いの方法であり、私たちが救われる方法はこれしかないのです。これを拒むなら、そこに救いがあろう筈がないのです。
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《成果なき現実を越えて》

2013-01-20

 

それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある。」 (イザヤ49:4)

 

主は「わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現わす。」(3)と約束してくださいました。しかし、私たちの現実はそう生易しいものではありません。◇<私は無駄な骨折りをして・・・>と出てきます(4a)。これは、つぶやきです。自分の実際の生活において目に見える成果が現われないと、私たちにもこんなつぶやきが出てきます。<いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした>ように思えるからです。しかし、神のしもべの素晴しいところは、<それでも・・・私の報酬は、私の神とともにある。」(4b)と言えることです。これが信仰です。私たちは、現われた成果を頼りに生きて行くのではなく、愛と恵みの主に信頼と期待を寄せて生きて行くのです。◇この信仰に対する主の答えがv6です。二つの恵みが示されています。一つは、散らされていた神の民が再び集められて来るという約束です。しかし、主の恵みはそれだけにとどまりません。神のしもべが<諸国の民の光>とされ、<地の果てまで主の救いをもたらす者>とされると言うのです。私たちは即座に主のあの「大命令」を想い起します(マタイ28:18~20)。言うまでもなく、今の時代は、クリスチャンがこの働きを担うのです。◇非常におもしろいではないですか。イスラエルの歴史においてこれがやがて確実になって行くように、私たちの歩みにおいてもこうなって行くのです。主権はにあるのです。私たちは、成果なき現実を越えて、何と世界宣教を担っているのです。信仰を失ってはなりません。私たちは「主の救いをもたらす者」なのです。<むだな骨折り>と思えるような労苦であっても、決して<いたずらに、むなしく>終わらないのです。全能の主が覚えてくださっているのです。アーメン。
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《召命と栄光》

2013-01-13

 

「あなたはわたしのしもべ、イスラエル。わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現わす。」 (イザヤ49:3)

 

自分がクリスチャンであることを、この聖句が示すような角度から捉えたことがあるでしょうか。◇<主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。>(1)とあります。私が救われてクリスチャンとなったのは、偶然でもなく、また人から出たことでもありません。永遠の神ご自身から来ていることなのです。これを「召命」と言います。私たちはこの点においても、自分中心の考え方に陥っていることがあるのではないでしょうか。私が選んだ神であり、私が決めたクリスチャンという生き方なのです。しかし、本当はまったく逆なのです。すべては絶対主権者であられる神から来ているのです。私たちは、<生まれる前から>神に召され、選び出されているのです。◇何のためにでしょう。神の栄光を担うためです。<わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現わす。」>と主は言われます。すでに学んだ48:11では<わたしはわたしの栄光を他の者には与えない。>とも言われています。旧約時代はイスラエル、今の時代は私たちクリスチャンです。私たちは、神の栄光を現わす「神の器」なのです。使徒パウロもこのことを強調しています(Ⅰコリント6:18~20)。彼が<自分のからだをもって>と言っているのには留意しなければなりません。◇自分がこのような者であることを知ったなら、おのずから私たちの生き方も定まってくるのではないでしょうか。神の栄光を現わしそうにないないことは大胆に捨てなければなりません。反対に、神の栄光を現わす事柄は勇気をもって取り入れて行かねばなりません。クリスチャン人生の祝福は、この取捨選択で勝ち取られて行くのです。アーメン。
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《裁くことを止めよ!》

2013-01-06

 

 〈さばいてはいけません。さばかれないためです。〉  (マタイ7:1)

 

上記のみことばは、クリスチャンにとって大切なみことばの一つですが、おろそかにされがちなみことばです。◇まず、裁くという点について考えてみますと、人間は誰もが他人を裁きます。私たちは普段の生活ではあまり意識していませんが、他人を裁いてしまう罪があるのです。ですから、主は  v1〈さばいてはいけません。〉と非常に強く語られました。では、どのようにして他人を裁いているのでしょうか?  ルカ18:9-14で、イエス様はたとえ話をされました。それによりますと、人間は自分と他人を自己評価して比較します。ここではパリサイ人が、自分と罪人の取税人を評価しました。彼は自分に誤った評価をして、取税人と比較したのです。こうして自分と他人を比較する事から裁きは始まります。その上で、パリサイ人は自分を義としました(v9)。これが大きな誤りなのです。他人と自分を比較し、自分を義とする時、私たちは裁く罪を犯してしまうのです。その時、もはやあのカルバリの十字架は見えていません。十字架を投げ捨てて、自分を義人として他人を裁いているのです。◇次ぎに、何故裁いてはいけないのでしょうか?主イエスはその理由をv1〈さばかれないためです。〉と言われました。私たちが裁いた事は、必ず返ってくるからなのです。裁けば裁くとおりに、量ったら量るとおりに、私たちに返ってくるのです(v2)。聖書を見れば明らかです。裁く者は同じように裁かれます。サウル王は剣でダビデを裁きました。ですから、彼は剣で裁かれ致命傷を負って死んだのです。このように主は人の裁きを覚えておられ、自分がしたように、その人を裁かれるのです。◇ですから、私たちは裁くことを止めた信仰生活を目指しましょう。         (文:実成)
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