浦和聖書バプテスト教会

2月, 2013年

《神の救いを受けるために》(1)

2013-02-24

 

  しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。 (ローマ3:21)

 

神の救いを受けるためには、神の前に義と認められねばなりません。罪ある者は、神の国を相続することはできないからです。では、どうしたら義と認められるのでしょう。◇先ず最初に頭に浮かぶのは、神の戒め(律法)を守って正しい人になることだ、という考えです。これは今日でも、人々の心に根深く残っている考え方です。しかし、聖書はこの考え方をまったく否定しています(20)。この方法で義と認められようとするなら、すべての律法を、しかも完全に守らなければならないからです(ガラテヤ3:10,11)。それができる人はひとりもいません。この点で、全世界は神のさばきに服しているのです。しかも、人はそのさばきに対して、正当な何の弁明もできないのです(19)。◇当時のユダヤ人、特にパリサイ人の決定的な誤りがここにあります。彼らは、人にできないことを為そうとしていたのです。しかも、もっと悪いことに、自分にはそれができていると考えていたのです。これは虚偽以外の何ものでもありません。主イエスが、激しい怒りをもって彼らを責めたのには(マタイ23章)それなりの理由があったのです。私たちは、この誤りを繰り返さないようにしなければなりません。◇<律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。>(20b)。しかし、これは必要なことなのです。律法によって自分が罪人であるということが分かったからこそ、私たちは救い主(イエス・キリスト)に向かうのです。即ち、<イエス・キリストを信じる信仰による神の義>(22)です。人々が何と言おうと、これが神の定めた唯一の救いの方法であり、私たちが救われる方法はこれしかないのです。これを拒むなら、そこに救いがあろう筈がないのです。
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《義と愛の狭間で》(4)

2013-02-17

 

  ・・・こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。(ローマ3:26)

 

誤解されることを恐れながら思い切った言い方をすると、神様はご自身で矛盾を抱えられたのです。◇義を貫こうとすると、その背信の罪ゆえにすべての人をさばかねばなりません。しかしそうなったら、大洪水(創世記)のようなさばきを繰り返さねばなりません。何のために人間を創造し、愛を注いできたのか分からなくなってしまいます。神様の抱えた課題はこうです。背信の罪を重ねる人間を赦し救わねばならないが、かと言ってご自身の義なる属性を損なうことはできない。神が義でなくなることなどあり得ないからです。私たちでも分かるこの矛盾を解決したのが、御子イエス・キリストの十字架の死であることを覚えねばなりません。◇主イエスの十字架は、義によるさばきと愛による赦しを見事に統合したのです。なぜキリストが「二性一人格」のお方でなければならなかったのか、私たちはその理由をここに知るのです。人としてのキリストは、罪人の代表として神の義なるさばきを受けたのです。しかし同時に、神であられるキリストはその同じ十字架において罪の赦しを成就したのです。十字架において、罪はさばかれ、同時に赦されたのです。相対するさばきと赦しをひとつにしたのです。別の言い方をすれば、キリストは罪を赦す権威を持っておられる方なのに(マタイ9:6)、みずから罪人となってさばきを受けられたのです(ピリピ2:6~8)。◇このようなことは、人の世界では絶対に起こりえないことです。人の許しは、どうしても義を棚上げしなければなりません。罪を見逃すから許せるのです。しかし、神様の赦しは、罪を完全に処罰した赦しなのです。罪の処罰なしに、本当の罪の解決はあり得ないのです。
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《神の忍耐》(3)

2013-02-10

 

というのは、今まで犯されてきた罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。(ローマ3:25c)

 

もし神が、すべての罪を即座にさばかれたなら、確実に人類は絶滅していたことでしょう(例・ノアの大洪水)。しかし神は、忍耐をもってその罪を見のがして来られたというのです。考えねばなりません。◇まず最初に触れておかねばならないことは、<見のがす>ということは決して罪をあやふやにしてしまうことではないということです。罪の処罰なしに神が人を赦すとするなら、神ご自身が義なるお方ではなくなってしまいます。だから時至って、神は御子を世に遣わし、御子を十字架につけることによって罪を処罰されたのです。十字架は、神の義なるさばきの現われなのです(26)。この点が人の忍耐とまったく違うところです。◇神の忍耐というこの姿勢は、勿論、私たち個人の人生においても全く同じ真実です。人は神のさばきが現われないのをいいことにして、相変わらず神に背き、罪を犯し続けています。また神を信じている者たちも、時にはハバククのような疑惑に捕われてしまうのです(ハバクク1章)。しかしそれは、神が忍耐をもって見のがしておられるからで、時が満ちると必ず神の義は現されるのです。その時<人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。>(ガラテヤ6:7)。◇さらに付け加えねばなりません。神が忍耐をもって見のがしておられるということは、神が何もしておられないということでもありません。山の上からは、箱舟を造るトンテンカンという音が響いてくるではありませんか。この「神のトンテンカン」こそ、さばきが間近に迫ったことの警鐘であり、同時に悔い改めを求める神の呼び声なのです。私たちは、神の忍耐が怒りと悲しみに変わる時を迎えてはなりません。<確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。>(Ⅱコリント6:2)
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《新しい時代の到来》(2)

2013-02-03

 

 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。(ローマ3:21)

 

<しかし、今は>とあります。これは、救いの歴史がまったく新しい時代に入ったことを意味しています。私たちは、キリストの贖いが完全で最後的な救いの御わざであることを覚えねばなりません。即ち、主の十字架以降は、もう神の救いの新しい計画はないということです。文字通り、私たちを救うためになされた「最後の手段」なのです。◇この点で私たちは、使徒パウロとまったく同じ時代に生きているのです。2,000年の時の経過とともに社会の様相は大きく変わり、新しい救いを説く多くの宗教が興っても、神の救いの御わざはもう余すところなく完了しているのです。付け加えなければならないものは何もないということです。新約聖書の中で、今の時代を度々<終わりのとき>と語っているのはこの意味なのです(ヘブル1:1,2・同9:26)。◇しかし「新しい」と言っても、それは決して新しい全く別の救いが現されたと言う意味ではありません。即ち、律法の時代は律法を守ることによって救われ、キリストの時代はキリストを信じることによって救われるという意味ではないのです。注意しなければなりません。<信仰による義>はすべての時代を貫いている神の定めた唯一の救いの方法なのです。このことをパウロは次の4章で「アブラハムも信仰によって義と認められた」と実証しています(4:1~3)。◇<律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて>とあるのはこの意味です。神の救いは、昔も今も全く違わないのです。律法(戒め)も実は信じることを求めているではありませんか(第1戒)。守り行うより先ず神様を信じること、即ち全地の主であられる神と人格的な交わりに入ること、これが大切なのです。


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