浦和聖書バプテスト教会

4月, 2013年

《主が働かれる時は》

2013-04-28

 

  イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると・・・ (ルカ8:24)
私たちは先週の礼拝で<にわかに起こる恐怖>(箴言3:25)というみことばから学びました。きょうのこの箇所には、それを実体験するような出来事が記されています。◇先ず、ここでの聖書本来の意図を踏まえねばなりません。それは、主イエスが神であることを示すことにあります。これは、突風がおさまった後の弟子たちの驚きのことばによく現されています(25b)。しかし、それなら、即ちイエスが神であられるなら、何故この突風を未然に予知して、こんな危険に会わないようにしなかったのでしょう。不思議なことに、舟を出すように命じられたのは主ご自身なのです(22)。◇この素朴な疑問を解くためには「キリストの二性一人格」という教理を正しく理解する必要があります。主イエスは、私たちを罪から贖い出すために、神であられるのに人間の形をとってこの地上に来てくださいました。神であり人でもあるお方です(ピリピ2:6~8・ローマ8:3等)。けれども、いつでも常に神の超自然的な力を発揮していたのではありません。普段は、私たちと同じ、人としての生活を送っておられたのです。疲れを覚えて<ぐっすり眠ってしまわれた>イエスの姿がそれを語っています。◇では、どんな時に、主イエスは神としての働きをなさるのでしょう。この点には注意しなければなりません。いよいよ<水をかぶって危険になり>、弟子たちが<近寄って行ってイエスを起こし>、危険を訴えた時なのです。その時イエスは<起き上がって・・・>とあります。主イエスは、激しい風や荒れた高波の故に目を覚まされたのではないのです。弟子たちが危険を感じて真剣に主の助けを求めた時、主は<起き上がられた>のです。私たちは、v25の主の嘆きのことばを、しっかり受け止めねばなりません。
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《主の守りの中に》

2013-04-21

 

  にわかに起こる恐怖におびえるな。悪者どもが襲いかかってもおびえるな。主があなたのわきにおられ・・・守ってくださるからだ。 (箴言3:25,26)

 

<にわかに起こる恐怖>とあります。これは何も自然災害だけに限りません。今の時代は、人から来る災いをも考慮して生きて行かねばなりません。◇年の功で言わせてもらえれば、確かに今の時代は何処に危険が潜んでいるか分からない時代です。かつてのように、のんびり穏やかに生きることは、もうむずかしいのかも知れません。そして残念ながら、私たち人間には、行く先に何が待っているか予知する能力はありません。災いが、にわかに、不意に襲って来るのです。そんな時、私たちはどうしたらよいのでしょう。◇みことばは<おびえるな>と戒めています。これが単なる禁止命令でないことは、次の節(6)で明らかです。全能なる主が、私の傍らにいてくださるのです。即ち、主を信頼して歩んでいる私たちには、おびえなくてよい理由―確かな理由があるのです。主は助け主です。救い主です。私たちの<足がわなにかからないように、守ってくださる>のです。聖書の中には、このような主の守りがあることが数え切れないほど挙げられています(例・詩37:23,24 121編等)。主を信頼し、みこころに従って生きることこそ最も安全で確かな歩みなのです。◇3章の前の方の聖句と合わせて確認しておきましょう。v6とv17です。誰が<あなたの道をまっすぐにされる>のでしょう。主です。そして、その道は<楽しい道>であり<みな平安>なのです。私たちは、改めて、主を信頼して歩む者にはこのような主の守りがあることを覚えねばなりません。いたずらに心を動揺させないようにしましょう。心から拠り頼む者には、主は常にともにいてくださるのです。そして、<折にかなった助け>(ヘブル4:16)をくださるのです。
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《主に拠り頼んで》

2013-04-14

 

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。(箴言3:5)

 

信仰生活とは、全知全能なる主に拠り頼んで生きてゆく生活です。◇世の中では一般的にこういう生き方は歓迎されません。「神だのみの生活はよくない。」「もっと自分を信じて生きてゆくべきだ。」こんな声をよく聞きます。しかし聖書は、かえって<自分の悟りにたよるな。>と戒めています。なぜでしょうか。この「箴言」の中には、その答えと思われるような聖句がちゃんと用意されています(14:12 16:25)。私たちには、明日のことは分からないのです。だから自分では万全と考えていても、人生はたいていそのとおりにならないのです。やはり、全知全能の主にすべてを委ねることが万全なそなえなのです。◇では「主に拠り頼む」とはどういう生き方なのでしょう。次の聖句が(6)そのひとつの答えを示しています。<行く所どこにおいても>とは、何も物理的な場所に限定する必要はありません。「どんな時にも」をも含んでいるのです。良い時も悪い時も、順境の日にも逆境の日にも、です。人間の勝手な判断で主の臨在のあるなしを決めてはならない、ということです。あらゆることの中に<主を認める>のです。ダビデは次のように告白しています。<主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。>(詩16:8)。事実、主は常に、私たちとともにいてくださるお方です。◇最後に、主に拠り頼んだ人生がどうなるかを見ましょう。<そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。>(6)と約束されています。自分のこれまでの人生を振り返ってみましょう。大きく曲りくねってしまった時はたいてい<自分の悟り>を優先しているのです。クリスチャン人生は<まっすぐ>です。自分の考えを優先することに力を用いるのではなく、主に拠り頼むことに<心を尽くして>みましょう。

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《神の働きかけを知る》

2013-04-07

 

人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロと他の使徒たちに「兄弟たち。私たちはどうしたらよいのでしょうか。」と言った。 (使徒2:37)

 

一般的に人は、頭で何かを理解し、それを心で感じ、その上で新しい行動に向かうものです。聖霊なる神様はそのすべてにおいて働きかけておられると考えねばなりません。◇冒頭の聖句は、聖霊降臨の直後にペテロが語った説教に対する人々の反応です。<人々はこれを聞いて>とあります。彼らは説教を聞いて、何かを理解したのです。しかもその理解は、単なる新しい情報の収集といったようなものにとどまらず、人々の心に激しく響いたのです。<心を刺され>とあります。さらに、この二つの要素が伴ってはじめて、彼らは<私たちはどうしたらよいのでしょうか。>と新しい行動の必要を感じているのです。これこそ、みことばにおける聖霊の見事な働きなのです。◇もち論、この聖霊なる神様の働きは今日でも同じであると信じなければなりません。歴史を振り返ると、聖霊の働きの鮮やかな時代とそうでない時代があるのは確かです。しかし、聖霊が働きを止めてしまっているわけではありません。問題は常に人間の側にあります。信仰者たちが聖霊の働きを知らないでいる、これが最も大きな原因です。実際に聖書の中にも、聖霊の与えられていることを知らないまま真面目に信仰生活を送っていた人たちがいたことが記されています(使徒19:1,2)。◇私たちはどうでしょうか。みことばの理解を妨げる何かを持っていないでしょうか。心はどうでしょう。冷たく知的な感動のない理解で終わっていないでしょうか。理解が感動につながらないところにも問題を覚えねばなりません。さらに、心で何かを感じても、それで終わってしまう人も多いのです。ここにも聖霊の働きが必要なのです。アーメン。
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