浦和聖書バプテスト教会

5月, 2013年

特別伝道集会

2013-05-26

 

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。 (マタイ7:7)

 

これは主イエスの語られた有名なみことばです。言うまでもなく、主イエスも、神様を求めることを強く勧めておられるのです。◇聖書の他の箇所には、こんなことばも出てきます。<これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見出すこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。>(使徒17:27) 神様を求めること、これは神様を知る上で欠かせない姿勢と言えるでしょう。◇ところが正直なところ、私たちの心の中には神様を認めたくない思いもあるのです。<愚か者は心の中で「神はいない」と言っている。>(詩14:1)という聖書のことばもあります。心の中には、一方においては「神様を知りたい」という願いがありますが、他方においては「神様なんかいない」という思いもあるのです。こういう矛盾したものを抱えているのが罪人の真の姿と言えるでしょう。もち論、神様を否定する者に神様が分かる筈がありません。神様は、求める者に現われてくださるのです。◇同じ詩篇の中に、おもしろい告白が出てきます。<あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。>(詩18:25)とあります。これに付け加えて、自分の心の状態をそのまま羅列してもよいかも知れません。「求めない者には、現われない方。求める者には、現われてくださる方」とです。大切なことは、自分の心をどちらに定めるかでしょう。私たちは、自分の心に対して責任を負っているのです。心に動かされてしまう者ではなく(気持ち・感情)、かえって、心を動かす者でありたいものです(意志)。

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《明日を誇るな》

2013-05-19

 

あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。  (箴言27:1)

 

「明日を誇る」とは、どういうことでしょう。業績を誇るのなら分かります。そこにはそれなりの結果があるからです。◇しかし、明日を誇るとは、まだ何の実績もないのです。これこれのことをすればこうなる筈だ、という根拠のない見通しだけです。「私が本気になれば、こういう素晴しい結果を生み出すことができる。私にはその力がある」と誇りながら、今日という日を何もしないでその誇りだけで過ごしてしまう。こういう生き方を暗示しているのでしょう。そして、明日もその次の日も、その誇りだけで過ぎ去ってしまうのです。もしこの姿勢が信仰生活だったらどうなるのでしょう。主が喜んでくださる信仰は、いつまで経っても体得できないでしょう。◇そればかりか、みことばは明日のことはどうなるか分からないのだ、と告げています。これは私たちが体験的にも知っていることです。突然の出来事に、せっかくの計画がだめになるということが現実には多いのです。計画通りにいかないのが人生であるといっても過言ではないでしょう。ですから大切なことは、明日を誇ったり、明日のことで頭を悩ます(思い煩う)のではなくて、きょうのこのひと日をどう生きるかです。◇ヤコブ書に、興味深いお話が出てきます(4:13~17)。そこにははっきり<あなたがたには、あすのことはわからないのです。>と記されています。また主イエスも同じようなことを教えておられます(マタイ6:33,34)。<あすのことはあすが心配します。>とはおもしろい言い方です。誇るにしろ、思い煩うにしろ、あすのことで今日が生きられなくなってしまうのは愚かです。私たちには、今しなければならないことがあるのです。それに、いかに誠実に取り組むかです。

《知識の初め》

2013-05-12

 

主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。 (箴言1:7)

 

この1節は、いみじくも箴言全体のテーマを言い表しています。◇先ず、その意味をしっかり捉えておく必要があります。<初め>ということばは、創世記1:1の<初めに神は・・・>と同じような意味合いのことばです。それは通り過ぎてしまう一点ではなく、永続する線的なものとして捉えておかねばなりません。と言うのは、最初の出発点において<主を恐れること>がなされていても、その後の歩みでそれが忘れられてしまうということがあってはならないからです。ここでの<初め>は「あらゆる知識を支える土台」といったような意味なのです。◇これは、クリスチャン人生の基本中の基本と考えねばなりません。主を恐れずに生きていることがあってはならないのです。主を恐れているから、道徳的にも霊的にもきよい生き方が展開するのです。反対に主を恐れていないから平気で罪を犯せるのです。過去の罪を犯してしまった時の自分を想い起してみてください。そこには、主を恐れる思いがなかったのです。これは何もクリスチャンだけではないはずです。人は、心の中に恐れ敬う存在を持っていないから罪を犯すのです。そういう意味で、主に対する恐れは罪に対する恐れと重なっているのです。◇ですから、主を恐れて生きることは、結局は主の臨在を覚えつつ生きることなのです。これは、人間にとって最も大切なことです。神に対する恐れを払拭してしまった現代社会がどんな風になって行くか見定めねばなりません。諸々の知識が正しく活用されないのです。むしろ、ますます悪用されて行くでしょう。土台を欠いた建設は、ひと時は立派に見えても、時を経るともろくも崩れてしまうのです。この章の終わりのことばにも注目しておかねばなりません(32)。
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《悔い改めという恵み》

2013-05-05

 

自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者は、あわれみを受ける。 (箴言28:13)

 

この一連の聖句は(13,14)、悔い改めの普遍的な恵みを教えてくれます。◇まず最初に覚えたいことは、罪とは神にそむくことであり、人はそれを隠す傾向を持っているということです。これは原初から、即ちエデンの園から確認できます(創世記3章)。罪を犯した最初の人間は、神が近づかれた時、<神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。>と記されています。これは、罪を隠そうとする人間の普遍的な姿と言わねばなりません。私たちの人生を狂わせ、神の祝福を失わせるのは、この「隠されたそむきの罪」なのです。私たちは<成功しない>ということばを、<あわれみを受ける>と対比して覚えねばなりません。◇神のあわれみは<それを告白して、それを捨てる者>に注がれるのです。もち論、他人に対してでなく、神に向かって告白するのです(Ⅰヨハネ1:9)。それと同時に、その罪を捨てねばなりません。告白と捨てることとが一体となってなされるのが「悔い改め」なのです。この悔い改めがなされた時、神はその罪を赦してくださるのです。イエス・キリストの十字架の贖いを改めて感謝しなければなりません。神のあわれみとは、「罪の赦し」とその後に続く「聖化」なのです。◇私たちは、このような悔い改めの姿勢を持って生きて行かねばなりません。v14では、このような人を<幸いなことよ。>と言っています。悔い改めは、主を恐れていることの「しるし」と言ってもよいでしょう。反対に<心をかたくなにする人>とは、自分のそむきの罪を認めず、悔い改めを拒む人を指していると言ってよいでしょう。すべての人の人生は、絶対主権者であられる神の御手の中にあることを覚えねばなりません(使徒17:17,18)。
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