浦和聖書バプテスト教会

7月, 2013年

《信仰人生への召しと出発》

2013-07-28

 

 

「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12:1)

 

「信仰の父」と呼ばれるアブラハムにも、実は信仰による新しい人生への出発があったのです。◇彼はもともと、父テラといっしょに<カルデヤ人のウル>という町に住んでいました(1:28・31)。もち論これは異教の町です。もしこのままこの町にとどまっていたら、彼は異教の習慣にどっぷりと浸かったまま、当たり前のように滅びの道を歩んでいたことでしょう。しかし、ある時神は「そこから出よ」と語りかけられたのです。これが信仰への召しです。<生まれ故郷>から出て、神の示す<カナンの地>へ向かうのです。<アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。>(4)とあります。これが信仰人生への出発なのです。◇神とともに歩むためには、誰にもこのような決断と出発が必要です。<生まれ故郷>を離れることは、何とさびしいことでしょう。<父の家>を出ることは何と心細いことでしょう。加えて今後のことを想像すると何と不安なことでしょう。もし彼が、このような人間的な感情に囚われていたら、ウルから一歩も踏み出すことが出来なかったでしょう。そして、それは、神様の祝福を受け損なうことを意味するのです。◇覚えねばなりません。神様は意味もなく、いたずらに私たちを召し出されるのではありません。ましてや、私たちを苦しめるために召し出される筈がありません。アブラハムにも祝福の約束が示されているではありませんか(2)。この祝福の約束を信頼して一歩を踏み出すことが信仰生活の始まりなのです。そして、この約束が真実であることを確めて行くのがこれからの信仰生活なのです。彼は、困難や失敗を繰り返しつつも、この約束どおり「信仰の父」と呼ばれるようになって行ったのです。ハレルヤ。

《あかしする恵み》

2013-07-21

 

私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。 (Ⅰコリント9:23)

 

私たちは何のためにあかしするのでしょう。<より多くの人を獲得する>ためです。この目的を少しでも実現するためには、それなりの姿勢が必要になります。◇先ず第一に(19)<すべての人の奴隷となる>ことです。これは、ひょっとしたら最もむずかしい姿勢かもしれません。しかし、福音の恵みは常に下から上へと伝わって行くものであることを覚えねばなりません(20~22)。私たちがしもべになり切った時、神は上から祝福をお与えになるのです。ですから、立場的に上に立たされた人こそ、下に立つこと、仕えることを知っていなければなりません(マタイ20:26,27)。第二に(23)、すべてのことを福音のためにすることです。これは日常の生活でいとも簡単に忘れ去られていることです。みことばが<すべてのこと>と語っていることに注意を喚起したいと思います。あかしする時はもち論のこと、普段の何気ない生活もこうでなければならないのです。そうでないと、あかししているのに<福音の恵みをともに受ける者>となれないのです。あかししたことを、その生活ぶりで否定してしまっている。これは多いにあり得ることです。◇最後に覚えたいことは(27)、自分の肉のからだを<打ちたたいて従わせる>という姿勢です。これを欠いているために<自分自身が失格者になる>場合があまりにも多いのです。肉のからだを欲しいままにしてはいけません。私たちは、もともと罪を持った存在なのです。この身を通して福音があかしされるためには、<自分のからだを打ちたたいて従わせる>、こういう姿勢も必要なのです。往々にして、自分の自由なふるまいが罪を露わにしていることに気付かねばなりません。

《キリストを証しする》

2013-07-14

 

だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を御使いたちの前で認めます。(ルカ12:8)

 

人を恐れる故にキリストを告白できないでいる。これは、聖書の中のある人たちだけでなく、私たちの現実でもあります。◇しかし、主イエスは先ず、人を恐れずに神を恐れなさい、と教えられます(4,5)。思いもよらないことですが、主は、人に出来るのはせいぜい肉のいのちを奪うことで、それ以上はもう何も出来ない。しかし、死んだ後の永遠のさばきを行うお方こそ恐れなければならない、と言われます。どうも私たちの実際と反対のようです。私たちは様々な面で人を恐れてしまい、主を告白できなくなっているのではないでしょうか。改めて、人を恐れる必要はない、恐れなければならないお方は永遠の支配者、神であることを覚えさせられます。◇神ご自身が私たちを守ってくださるのです(6,7)。雀が例に挙げられているのはおもしろいではありませんか。雀は世の中ではあまり価値のないものの一つに数えられています。しかし、そんな雀さえ神様は守っていてくださるのだから、まして私たちを支えてくださらない訳がない。これが主イエスのメッセージです。キリストを証しするときには特別な守りと支えがあることは言うまでもありません。◇加えて、これは最も重要なことですが、証しする者には聖霊の働きが用意されているのです(10~12)。「何をどう語ったらよいか」これを初めから考えるから動けなくなってしまうのです。主は、どんな時にも、何をどう語ろうかと心配するには及ばないと約束しておられます。語るべきことを、その時<聖霊が教えてくださる>からです。先のことを悪いほうに心配して語れなくなっている、これが私たちの姿ではないでしょうか。聖霊を信頼して、語ろうとする心構えをしておきたいものです。
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《キリストの証し人》

2013-07-07

 

「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」(ルカ8:39)

 

私たちはキリストの証し人です。この一人の人物を通して学んでみましょう。◇先ず最初に、それぞれに証しする場があるということです。この人は初め、主イエスの<お供をしたいとしきりに願った>(38)ようです。しかし主は、それを許しませんでした。なぜなら、彼がイエスの一行に加わってしまったら、ゲラサ人にキリストを証しする者がいなくなってしまうからです。そうすると、彼の同胞はこのまま救いを知らないままとどまってしまうことになります。主イエスがわざわざガリラヤ湖を渡ってこの地に来た意味も消え去ってしまうのです。だから彼は、この地にとどまってこの地の人々にキリストを証ししなければならなかったのです。◇では彼は、どのように証ししたのでしょう。彼には聖書を学ぶ時間もなく、基礎的な教理を教えてもらう機会もなかったのです。けれども、ただひとつのことは明らかでした。主イエスが自分にしてくださった<大きなこと>です。主イエスは、それを語りなさいと言っておられるのです。これなら、私たちも誰もが持っているではありませんか。かつての自分はどうだったのか、主イエスを受け入れた今はどう変えられたか、これをありのままに語ればよいのです。◇そして最後に覚えたいことは、語る相手を制限する必要は全くない、ということです。彼はもち論<家に帰って>まず家族に語ったでしょう。かつての彼を知っていた家族はどれほど驚き喜んだことでしょう。しかし、彼の証しは家族だけにとどまっていませんでした。<町中に言い広めた>とあります。これこそ、主が彼をこの地に残された意味なのです。彼の使命と考えてよいでしょう。こうしてゲラサ人の地にも救いが広まって行ったのです。ハレルヤ。
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