浦和聖書バプテスト教会

8月, 2013年

《新しく生まれなければ》

2013-08-25

 

  人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。 (ヨハネ3:3)

 

世の中には真面目に一生懸命生きている人がけっこう多いのに、どうしてその人たちが神様を知ることがないのでしょう。◇主イエスの御ことばはその理由を明らかにしています。神様を知るためには、人は新しく生まれなければならないのです。主は<肉によって生まれた者は肉です。>(6)とも言われます。私たちは母親から生まれたからこのように存在しているのですが、そのままでは神様を知ることはできない、ということです。神様を知るためには、どうしても新しく生まれる必要があるのです。◇実は、この点がなかなか理解できないようです(4)。ほとんどの人が、人は一度生まれて一度死ぬ、それが人生のすべてだと思っています。しかし、主は、それは肉によって生まれたいのちであって、神の国に入るにはもう一つのいのち、永遠のいのちが必要であると教えておられるのです。<人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。>(5)とも語られます。巧みなたとえで説き明かされています(8)。風そのものの存在を目で見ることはできませんが、風が吹いていることはよく分かります。御霊によって生れた者もこれと同じであると主は言われるのです。◇では、御霊による新しい誕生はどのようになされるのでしょうか。聖書は明確に主イエス・キリストを信じることによってなされると示しています(15、16、36)。これは、神ご自身の超自然的御わざです。いのちを得るためには人は何もできないのです。肉のいのちとて同じです。人は絶対に自分でいのちを創造することはできません。いのちは、一方的な神からの賜物なのです。一方的に神様から授かるものなのです。新しいいのちもそうです。神様は、信じる者にそれをお与えになるのです。
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《神の時を待つ》

2013-08-18

 

ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。 (創世記16:16)

 

「信仰者の父」と呼ばれるアブラハムであっても、その信仰生涯に勇み足がなかった訳ではありません。彼は、神様の約束が成就する時を待てなかったのです。◇彼は妻の勧めもあって、女奴隷ハガルを通してイシュマエルという子どもを設けてしまいます(16章)。明らかにこれは彼の勇み足です。アブラハムは人為的に神の約束を実現しようとしてしまったのです。ですからこれは、全面的に神の約束に違反したのではありません。もし神の約束を全面的に無視するのなら、彼は自分の計画を推し進めて<ダマスコのエリエゼル>に跡を継がせたでしょう。しかし神様は「その者が跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出る者が、あなたの跡を継がなければならない。」(15:4)と命じられたのです。だから彼は、人為的に自分の身から出た子を設けたのです。神の約束を無理やり自分の力で実現しようとした、と言い換えてもよいでしょう。◇たぶんこれは、主から約束を頂いてから1~2年という短い期間ではなく、数年が経ってからのことでしょう。特に妻サラには相当焦りがあったと思われます。なかなか神の約束が実現しなかったのです。この点を考えると、彼らに同情できない訳ではありません。イシュマエルが生まれたとき彼は86歳、約束の子イサクが与えられたのはそれから14年後、彼が100歳の時なのですから(21:5)。当時の人がいかに長生きだったとは言え、神の時はあまりに遠かったのです。◇現代のものすごく早い時間の中に生きている私たちには、神の約束が実現する時を待つのがはるかに難しくなっているのではないでしょうか。しかし覚えねばなりません。神様の計画は、なされる事柄だけでなく、それが行われる時をも定めているのです(伝道者の書3:1~8)。

《神に義と認められる》

2013-08-11

 

 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(創世記15:6)

 

たったひとつでも満たされてないものを抱えていると、そのために私たちは「神の祝福がない」と感じてしまうようです。◇アブラハムもそうでした。主は「アブラムよ。恐れるな。・・・あなたの受ける報いは非常に大きい」(1)と告げられましたが、初めアブラハムはそれを素直に信じることが出来なかったようです。それは、彼にはまだ自分の身から出た子がいなかったからです(2)。そして自然の理から考えても、自分の子を持つということがもはや不可能になっていたからです(3)。彼は、彼なりに考えて自分の計画を進めていたのです。しかしこれは、主の御こころ(計画)ではありませんでした。◇主は、彼が進めてゆくべき主のご計画をお示しになります(3,4)。しかしこれは、彼が進めようとしている自分の計画にストップをかけられることを意味しています。<「その者があなたの跡を継いではならない。>のです。こういう主からの否定的な命令に、多くの人が戸惑い、主に不服な思いを抱いてしまうのです。しかし、主の命令はいつも私たちの願いをそのまま肯定してくれるとは限りません。否、多くの場合は否定されるのです。それは、私が進めようとしている計画が主の計画と違っているからなのです。◇主を信じるか否か、これが試されるのはこんな時なのです。主は可能性のあるものを何も示していません。夜空の星を見上げさせて「あなたの子孫はこのようになる」と言われても、ひとりの子もいない彼にどうして信じることができるでしょう。しかし<彼は主を信じた。>のです。これが「信仰」です。新約聖書はこれを信仰の原型的姿としています(ローマ4:1~5)。私たちクリスチャンも、救いの可能性は何一つないのに救われているのです。ハレルヤ!

《とどまっているな!》

2013-08-04

 

 

  アブラムがハランを出たときは、75歳であった。 (創世記12:4)

 

カルデヤのウルを出たアブラハムは、途中のハランという所に<住みついて>しまったようです(11:31b)。◇なぜそこにとどまってしまったのか。聖書はその理由を明らかにしていませんが、恐らくマイナスの理由だけではなかったでしょう。しかし、どんな有利な理由があろうと、ハランにとどまっていることは神の御心ではありません。主が示されたのは<カナンの地>なのです。勝ち取るべき本命の祝福はカナンの地にあるのです。そこに行かなければ、彼の信仰生涯は中途半端で終わり、神の壮大な計画を担うことにはならないのです。◇おもしろいことに気付きます。父テラはハランで死にます。205歳です(11:32)。聖書の記述がまちがっていなければ、アブラハムがハランを出たときには、まだ父テラは生きていたのです(参11:26,32・12:4)。たとえアブラハムが父テラ70歳のときの子どもであってもです。ですからアブラハムのハラン出立は、父と子との確定的な別離であったのです。<父の家を出て>が実際に行われたのです。私たちは、ここにも人間感情の様々な確執があったと想像することが許されるでしょう。主イエスの御ことばを想い起します(マタイ10:34~39)。◇神の召しに従いぬくためには、このような後ろ髪を引かれるような辛い時を経ることもあるのです。しかし、その辛さを避けようとしてハランにとどまり続けてはいけません。神様はカナンの地を指し示しておられるのです。アブラハム75歳の決断は、私たちの決断でもあるのです。多くのクリスチャンが、せっかくウルを出たのに、途中のハランにとどまり、ひっかかっているのはとても残念なことです。ハランにもハランの恵みはあるでしょうが、私たちはカナンの恵みに与らねばならないのです。
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