浦和聖書バプテスト教会

9月, 2013年

《何はともあれ》

2013-09-22

 

何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば・・・     (ルカ12:31)

 

今の日本の社会、物がなくて「何を食べようか。何を着ようか」と悩んでいる人は、本当に少ないでしょう。私たちの悩みは、ルカがこの直前に置いた「愚かな金持ち」の悩みと同類項と考えてよいでしょう(17)。◇と言うことは、先ず最初に覚えなければならないことは、物質的な欲望には限りがない、ということです。一旦この欲望にとりつかれると「これくらいでいい」という訳にはいかないのです。「もう少し多く、もう少しよいものを」と限りなく悩み続けなければなりません。お金に対する欲望は特にそうです。しかし、現実には、多くの人がこういう日常生活を送っているのではないでしょうか。かけがえのない人生が、この連続で終わってしまうのです。◇こういう人間の罪の習性を踏まえて、主イエスは<何はともあれ>神の国を求めなさい、と勧めておられるのです。実際に、その人が何を第1に求めているかでその人の人生は決まります。信仰生活ですらそうです。「この点で満足が得られたら、そうしたら神様を求めます。」と考えている人は、恐らく一生涯神様を求めることはないでしょう。満足する欲望などないからです。主イエスも<この水を飲む者はだれでも、また渇く>(ヨハネ4:13)と言われたではありませんか。◇だから主は<あなたがたは>神の国を求めなさい、と言われるのです。世の中がどうであれ、他の人がどうであれ、<あなたがたは>です。神の国を求める人は、やはり特殊な人なのです。「みんながそうだから」に弱い私たちは、みずからに注意を喚起する必要があります。神の国は、求める者に与えられるのです(32)。<小さな群れよ。恐れることはない。>と主イエスが励ましておられるではありませんか。
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《御霊によって歩む》

2013-09-15

 

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば・・・ (ガラテヤ5:16)

 

真のクリスチャンがキリストの御霊を持っているならば(ローマ8:9)、クリスチャンとしての生き方ができない理由は、御霊を持ってないことが原因なのではなく、御霊によって歩むことを知らないことが問題なのです。間違ってはなりません。相変わらず御霊を求めている人がいるからです。御霊を求めることはノン・クリスチャンの課題です。◇確かに、私たちが原因で、時には御霊を消してしまうことがあります(Ⅰテサロニケ5:19)。また、私たちの歩み如何によっては、御霊を悲しませてしまうこともあるのです(エペソ4:30)。しかしそれは、御霊が内住しているから起こることなので、そんな時は、私たちは御霊の力を取り戻す必要があります。内住の御霊は、私たちに平安を与え、私たちをキリストの証し人として立たせる内なる力なのです。◇v25には<もし私たちが御霊によって生きるなら>とあります。ここに、何よりも重要なポイントがあります。クリスチャンは、御霊によって生きる存在なのです。クリスチャンがクリスチャンとして生きるには御霊による以外にはないのです。これ以外の生き方はすべて肉による生き方になってしまうと考えてよいでしょう。神の律法に従うことさえそうです(18)。ガラテヤ教会の兄姉が陥った誤りがここにあるのです(3:Ⅰ~3)。私たちも、御霊で始まった信仰生活を、肉によって妨げられないようにしなければなりません。◇内なる御霊はクリスチャンの良心です。<御霊に導かれて進もうではありませんか。>と促されていますが、私たちが、祈りと内省を持って内なる御霊の声に耳を傾けると、そこに主の導きを知るのです。これは実に神秘的なことですが、真のクリスチャンはみなそうやって生きて行くのです。
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《真のクリスチャンは》

2013-09-08

 

キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。(ローマ8:9)

 

この一連の聖句は(8~11)、真のクリスチャンはキリストの御霊を宿していることを明示しています。◇しかし、このことをどのように知ることが出来るのでしょう。というのは、私たちの心はあまりにも偽ることが多いからです。残念なことですが、実際に偽りの信仰告白があることを認めざるを得ません。ましてや、自分の魂のことについては、自分のことであるにもかかわらず皆目分かりません。自分の魂にキリストの御霊が内住していることは、どんな科学的知恵を用いても客観的に確認することは出来ないのです。◇では、これは私たちには確めようのないことなのでしょうか。否です。もう一つの聖句(Ⅰコリント12:3)に目を向けてみましょう。そこには<聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。>とあります。偽りのない真実な心で、イエスを主と告白できる人は、キリストの御霊を宿している人なのです。これは、かなり高い確率で確めることができるのではないでしょうか。もう一度ニコデモに語った主イエスのたとえを想い起してください(ヨハネ3:8)。<風>そのものの存在を確めることはできなくとも、その<音を聞く>ことはできると主は言われます。言い換えれば、音(告白)によって風の存在(御霊の内住)を知るのです。◇ここに改めて、自分を吟味する必要が出てきます。「あなたは真のクリスチャンでしょうか。」イエスが主で自分が従になっているなら、確信を持って「私はクリスチャンです」と告白しなければなりません。反対に、自分が主でイエスが従であるなら、その信仰は初めからやり直さなければなりません。自分から出た信仰告白と御霊による信仰告白との違いは、最初は同じでも、その後の信仰生活が大きくずれて来るのです。
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《新しく生まれるには》

2013-09-01

 

モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。(ヨハネ3:14)

 

ニコデモの率直な疑問(9)に共感を覚えます。人の世では、新しく生まれることは起こり得ないことだからです。◇ですから先ず第一に覚えたいことは、新しく生まれること(新生)は、まったく一方的な神の超自然的な御わざであるということです。私たちは、いわゆる自己変革と新生とを明確に区別しておかねばなりません。新生は変化ではなく、新しい創造なのです。新しいいのち、永遠のいのちの賦与なのです。賦与ですから、私たちはそれを授受しなければなりません。人にはそれしか出来ませんし、またそれは人がしなければならない神に対する応答なのです。◇では、この応答はどのようになされ、どのような結果をもたらすのでしょうか。主イエスは旧約聖書のある出来事(民数記21章)を通してこれを説き明かしておられます。<モーセが荒野で蛇を上げたように>の説き明かしです。そこには<もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。>と記されています。まさに主イエス・キリストの十字架です。主はこの時点ですでに、ご自分が人間の贖いのために犠牲になることを知っておられたのです。私たちも、十字架に上げられたキリストを仰ぎ見ることによって<生きる>のです。◇改めて<仰ぎ見る>という信仰の大切さを覚えねばなりません。ここには、神の限りないあわれみが意図されているのです。<地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。>(イザヤ45:22) この御ことばを、十字架の上の主イエスの呼びかけとしてそのまま受け取らねばなりません。死の苦しみに悶えあえぎながら、主は私たちを救いに召いておられるのです。<わたしを仰ぎ見て救われよ。>と。
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