浦和聖書バプテスト教会

10月, 2013年

《罪と神の栄誉》

2013-10-27

 

 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより・・・ (ローマ3:23,24)

 

「すべての人が罪を犯した」とはどういうことなのでしょう。◇これを道徳的な行いの面だけで考えていると「私は人を殺したこともない。盗んだこともない。」等々、罪を認めなくてもよい人が生じてくるでしょう。私たちは、罪を「存在の否定」と「関係の破壊」という二つの面から捉えねばなりません。存在の否定とは、たとえば「お前なんかいなくていい」と言われたら、どんなに傷つき、怒り、また悲しむでしょう。しかし、私たちは、これを神様に対してしているのです。また、関係ということでは、私たちは「親子の縁を切る」ということばを知っていますが、これを神様との関係においてしているのです。こちらから、神様との縁を切っているのです。◇こういう者が<神からの栄誉>を受けられる筈がありません。原因はすべて私たちの側にあるのです。にもかかわらず、自分の不幸を「神も仏もありはしない」と嘆いているのは筋違いと言わねばなりません。愛の神が、突然、冷酷な神に変った訳ではないのです。神様を怒らせ、悲しませているのは、この私の罪なのです。イザヤ59:1,2。原因を自分で造っていながら、その結果に文句を言っている姿は無知ゆえの傲慢と言わねばなりません。◇こういう私たちが悔い改めねばならないのは言うまでもないことですが、それ以前に、神様の方で先に心を決めてくださったのです。それがv24です。キリストの十字架は、すべての悔い改めに先行する恵みです。即ち、キリストの十字架がなければ、神が罪人を赦す道もなく、また、すべての悔い改めも意味をなさなくなってしまうのです。根拠のない赦しは、真の赦しではないからです。改めて、神の恵みの深さを覚えたいものです
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《大勝利の理由》

2013-10-20

 

ダビデは、主が彼をイスラエルの王として堅く立て、・・・を知った。  (Ⅱサムエル5:12)

 

人生には戦いがありますが、それはダビデにもありました。ところが、彼はペリシテ人との戦いに大勝利を治めています。一体何故なのでしょうか?そこには2つの理由が挙げられます。
◇第一にダビデは自分の使命を明確に知ったからです(v12)。これは、知識的に知ったのではありません。今までの経験と現状からから明確に悟ったという事です。確かにダビデは主によって油注がれた人でした。けれども、少年ダビデは、ゴリアテ(ペリシテ人)と決闘しました。青年期は王に仕え、様々な国と戦いました。結果、王にねたまれ命も狙われました。こうしたこれまでの経験と今、自分が王になろうとしている状況から、主が自分をイスラエルの王としたことを悟り、彼は王の使命〈わたしの民をペリシテ人のから救う〉(Ⅰサムエル9:16)を明確に理解したのです。ですから、見事に戦い勝利したのです。
◇第二にダビデは主の時と方法で戦ったからです。ダビデは一回目の戦いに向かう時、主に伺いました(v19)。その上で彼は戦いに望んでいます。彼は大敵を前に、戦いが主の時かどうかを確認したのです。そして見事に勝利しました。さらに、二回目の戦いでは別の方法が示されましたが、彼は主を信頼して素直に従いました(v23-25)。人は成功するとそのやり方に固執するものです。けれども、彼はそういった人間的な力に頼らずに、主の方法に従ったのです。だからこそ、彼はイスラエルに大勝利をもたらす事が出来たのです。私たちも自らの使命を悟り、それに向かって主の時と方法で戦いたいものです。       (文:実成)
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《御霊のみを結ぶ》

2013-10-13

 

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。(ガラテヤ5:22,23)

 

この聖句には、九つの御霊の実が列挙されています。まず、
どんなものかを見ておきましょう。一般的に三つに分類されています。初めの三つは神様との関わりにおいて生まれてくるもの、真ん中の三つは他の人(隣人)との関わりの中で生まれてくるもの、そして最後の三つは自分自身との関わりの中で生まれてくるものと言われています。◇このことから先ず第一に学ばなければならないことは、これらの実は、関係を欠いたところには生まれてこないということです。神様との関係、隣人との関係、最近では自分自身からさえも孤立している人が多くなっているのではないでしょうか。◇次に覚えたいことは、これらの実はすべて人格的なものであるという点です。即ち、心の創造なのです。そして言うまでもなく、これらの実がクリスチャン人格を形成しているのです。世の人と自分との違いをこの点において検証してみる必要があるのではないでしょうか。これらの実を欠いているが故に、私たちの福音宣教がもうひとつ説得力に乏しいのではないでしょうか。クリスチャンが世の人と同じ心で生きているなら、世の人はどうして信仰を持つ必要を覚えるでしょう。事態の好転だけを求めるのは、御利益信仰です。◇最後に、これらが<実>と言われていることに注意しなければなりません。実は一日にして結ばれることはありません。生命の活動の結果として生まれてくるのです。そこには、生命活動の停止のない時間の経緯があるのです。言い換えれば、御霊によって歩み続けた結果なのです。私たちは、実がないことを嘆く前に、御霊によって歩んでいるかどうかを先に吟味しなければなりません。御霊によって歩んでいるなら、実はおのずから結ばれてくるのです。
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《御霊の導きとは》

2013-10-06

 

もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて進もうではありませんか。(ガラテヤ5:25)

 

「使徒の働き」16:6~11を開きましょう。ここには、御霊の導きがどんな風になされるか、その具体的で原則的な形態を見ることができます。◇まず、パウロのような超従順な聖徒でも、常に御霊の思いに従えたわけではないという点に注意したいと思います。彼が祈りを込めて考え決めた計画です。それを実行しようとした時、二度に渡って<聖霊によって禁じられて>いるのです(6,7)。彼の計画の何処に罪や落ち度があったと言えるでしょう。しかし、結果から見ると、これも「肉の願い」による計画だったのです。だから聖霊はそれを禁じたのです。◇このように、御霊の導きは、まず私たちの計画を禁じることから始まる場合が多いのです。これを「御霊の否定的な導き」と呼んでいいでしょう。禁じられる訳ですから、私たちの側では不可解です。しかし、これは、私たちを主の御心に従わせるための軌道修正なのです。決して、不可解を理由にして主の導きを疑ってはなりません。正しい道に立つためには、誤っている道を離れなければならないのです。これは心残りのすることですが、御霊の思いに従うためには、どうしてもここを通らなければならないのです。◇ここを通ると、今度は御霊は「肯定的な導き」を示されます(9~11)。ここでも注意しなければならない点は、ひと言も「この幻が御霊の導きである」と告げられていないことです。重要なことは、パウロの心に<確信>が与えられ、それを実行しようとした時に、道が開けた、という点です。内的なうなずきと外的な導きがあったということです。この内外二つの要素を踏まえて、後に結果的に御霊の導きと言えるのです。正しい御霊の導きは、狂信や過信からも私たちを守ってくれるのです。アーメン。
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《肉の願い・御霊の思い》

2013-10-06

 

なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて ・・・・        (ガラテヤ書5:17)

 

クリスチャンは、自分の中に、自分を動かす二つの対立する原理を持っています。◇まず肉の願いですが、これは普通私たちが考えている概念よりずっと広い意味を持っています。<生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。>(Ⅰコリント2:14)と言われています。もち論狭い意味での欲望も含まれますが、「生まれながら」に含まれるすべてを意味していると考えてよいでしょう。ですから、神の律法に従うことさえ、時には肉による生き方になってしまうと伝えているのです(18)。「うまれながら」ですから、世の人は全員がこの原理だけで生きている訳です。◇ところがクリスチャンは、キリストを信じた時に神の御霊を受けました。今は、御霊の思いに従う生き方が与えられているのです。御ことばは、御霊は肉に逆らい、肉は御霊に逆らうと伝えています。この二つの間には、うまい調和はないのです。思い切って単純化して言うなら、自分を満足させるか、主に喜んでいただくか、この二つの板ばさみの中で、どちらか一方に立ってでしか生きられないのです。ここに、私たちの霊的な戦いがあります。◇もち論、御ことばは<御霊によって歩みなさい。>(16)と命じています。信仰生活は、事々に御霊の思いを知って、それに従って行こうとする意志的な生き方なのです。クリスチャンは、決して、神に操縦されるロボットではありません。自分の内にある二つの相対立する心の動きを知って、一方を捨て去り、他方を選び取って行くのです。この内面で戦い勝利することを学んでいないと、神様を信じてはいても、肉の願いで生きてしまうことになるのです。しかし、従おうとする者には、御霊は無限です。
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