浦和聖書バプテスト教会

11月, 2013年

《こころが変れば・・・》

2013-11-24

 

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。(Ⅱコリント5:17)

 

キリスト教信仰の素晴しい点は、信じる者が新しく造り変えられるところにあります。◇これは、まったく神ご自身の御わざです。誰でも自分で自分を変えようと真剣に取り組んだことのある人なら、自分を造り変えることがどんなに不可能な課題であるかを知っているでしょう。しかし神は、これをなしてくださるのです。<その人は新しく造られた>とは、別訳では「そこには新しい創造があります」となります(脚注)。主イエスとニコデモとの対話も参考になるでしょう(ヨハネ3:3)。<新しく生まれる>とは、「天から生まれる」ことなのです。◇では、どんな風に変えられるのでしょう。ひとつの観点から、具体的に考えてみましょう。憎しみと愛です。主イエスは<互いに愛し合いなさい。>と命じられました(ヨハネ15:12,17)。これを受けて使徒ヨハネは<兄弟を憎む者はみな、人殺しです。>(Ⅰヨハネ3:15)と言いました。もしこころの中に憎しみを抱えたままで、言葉や行為で愛情を現わそうとするなら、それはなんと苦しく難しいことでしょう。聖書はそういう在り方を「律法主義」と呼んでいるのです。主イエスもそういう人を<白く塗った墓>にたとえています(マタイ23:27)。本物の愛は、愛のこころからしか生まれ出ないのです。◇新しく造り変えられるとは、こころが変えられることなのです。憎しみが愛のこころに、不平・不満が感謝のこころに、むなしさが望みに満ちたこころに変えられるのです。こういうことが<キリストのうちにあるなら>起こるのです。しかも<だれでも>です。こころが変れば、人生のすべてが変ります。イエス・キリストはそれをしてくださったのです。こころが何も変ってないのに人生だけを変えようとするから無理があるのです。
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《神の御霊を受けているのに》

2013-11-17

 

ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。 (コリントⅠ2:12)

 

ここでパウロが問題にしている人々が、どんな人々であったかを読み取ってください。◇パウロは決して、彼らを「救われてない」とか「クリスチャンでない」と言っているのではないのです。反対に、はっきりと<私たちは・・・神の御霊を受けました。>と言っています。即ち、神の御霊を受けている真のクリスチャンであっても、それにふさわしい歩みをしていない人々に注意を促しているのです。と言うことは、神の御霊を受けていても、その御霊の思いをまったく無視して生きていたクリスチャンが出現していたということになります。これは決してコリント教会だけの問題ではないでしょう。◇パウロは、このクリスチャンたちを<肉に属する人、キリストにある幼子>(1)と言っています。しかも、抽象的な論議ではなく、その実際的な生活を指摘しています(3)。<あなたがたの間にねたみや争いがある>と。<ただの人のように歩んでいる>(4)とは、救われているのに、救われてない人のように生活しているということです。これが当然コリント教会の問題にもなっていたわけです。◇こういう彼らの姿を見ると、改めて、御霊を受けているクリスチャンが必ずしも御霊によって歩めるわけでないことを思い知らされます。彼らの姿こそ、今日の私たちの問題ではないでしょうか。多くのクリスチャンが、御霊によって歩むことを知らないのです。そして<生まれながら>(2:14)のままで生きているのです。生まれながらとは、罪の力に当たり前のように、自然に動かされている姿です。そこには、罪意識はまったくなく、むしろ本人は自由なのです。クリスチャンがそういう生き方をしていてよいのでしょうか。根底から吟味し直す必要があるのではないでしょうか。
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《子ども祝福礼拝に当たって》

2013-11-10

 

イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。(ルカ2:52)

 

クリスマスの記録はけっこう詳しく残されているのに、イエスの幼少年期の記録は僅かにここに残されているだけです。◇まず<イエスはますます知恵が進み>とあります。これを、心の成長とみなしてよいでしょう。従って次の<背たけも大きくなり>は、からだの成長と考えることが許されるでしょう。要するに、幼少年期のイエスは、心とからだのバランスを保ちながら大人に成長していったと想像することができます。これは実に大切なことです。◇近年、文化の多様化によって、このバランスが偏ってしまう傾向があるのには注意しなければなりません。メヂィヤも天才少年をもてはやし過ぎます。何よりいけないのは、親がそれを得意がってしまうことです。例えば、スポーツ少年はどうしてもからだの成長の方に力点が偏ります。また特異な情報知識や技術に秀でた少年も出現します。その子の得意な面を伸ばしてあげるのは結構なことですが、そのあまり他の必要な面に大きな欠けを造ってしまうことが多いのです。現在、大人になっても人間関係を築けない、社会生活がうまく出来ない人が多くなっている要因の一つも、こんなところにあるのではないでしょうか。◇大切なことは<神と人とに愛された>です。この重要性を覚えねばなりません。それは、このことばを否定してみればよく分かります。神にも人にも愛されない人、これは大変です。孤立し、偏屈な大人は、愛を失ったところに生まれてくるのです。強調しなければなりません。子どもたちにとって教会という場所は、神の愛を知り、大人たちの愛を知る場所でなければなりません。間違いなく、人は愛の中で健全な成長を遂げるのです。アーメン。
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《この価なき者を》

2013-11-03

 

  ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 (ローマ3:24)

 

<価なしに>ということばに注目してください。これほど<神の恵み>を物語っていることばは他にありません。◇何よりも先ず第一に、義と認められる(救われる)に価する理由を自分のうちに何一つ持ってないことを意味しています。もし自分のうちに「救われて当然」と思うものを一つでも見出しているなら、その人はまだ救いを知らない人と言わねばなりません。真実は「滅ぼされて当然」なのではないでしょうか。ヨハネはこのことを次のように語っています(ヨハネ1:13)。◇次に、滅ぼされて当然な者が罪赦されて救われているということは、神の愛が無限であることを物語っています。即ち、神様の愛には制限や差別はまったくないのです。聖歌448番3節には<あまりに罪が深く 救われることなどは 思いもよらぬなどど 言うのは誰か>という歌詞があります。まさにアーメンです。どんなに罪深い人であっても、その罪深さの故に救いを制限されることは絶対にないのです(詩篇103:8~12)。かえって制限を設けてしまっているのは、私たちの方ではないでしょうか。私たちは、救われるにふさわしい価値を何一つ持っていないと同時に、救いを拒まなければならない理由も何一つ持っていないのです。◇このことを可能にしたのが<キリスト・イエスの贖いのゆえに>であることを改めて覚えねばなりません。神の御子が十字架刑で死んだのです。と言う事は、自分の死を持って償わねばならない罪さえも赦されるということです。死をもって償わなければならない罪、これ以上に重い罪はこの世にありません。しかし、まったく罪のないお方が、死をもって、この償いをなし終えてくださったのです。ハレルヤ!
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