浦和聖書バプテスト教会

12月, 2013年

《主の恵みを確認して》

2013-12-29

 

わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103:2)

 

この年を閉じるに当たって、私たちは<主の良くしてくださったこと>をしっかり確認し、それを踏まえて新しい年に向かって行きたいものです。◇なぜこのような姿勢が必要かというと、信仰生活も一朝一夕に出来上がるものではなく、一つ一つ積み重ねられていくものだからです。現代社会のように何もかも手っ取り早くよい結果を出そうとするのは、こと信仰生活には禁物です。与えられた祝福を崩してはまた新しい祝福を求める、これの繰り返しになってしまいます。<恵みの上にさらに恵みを受けた>(ヨハネ1:16)ということばがあります。信仰生活はこうでなければなりません。◇何と言っても忘れてならないのは、主の御赦しの中で生かされていることです。<主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし・・・>(3)とあります。もし主が私たちの罪にしたがって私たちを扱われたら(10)、私たちはどうなっていたでしょう。もし主が私たちの咎にしたがって私たちをさばかれたら、私たちはどうなっていたでしょう。今こうやって穏やかな心でこの年を閉じることが出来るのは、主の限りない御赦しがあってこそなのです。改めて、十字架の恵みに感謝しなければなりません。◇さらに加えて確認しておかねばならないことは、引き続き主の恵みを受けるためにどんな心構えが必要か、ということです。<しかし、主の恵みは、とこしえからとこしえまで、主を恐れる者の上にある>(17)と告げられています。もしクリスチャンが主を恐れる心を失ったら、たちまち罪の生活に戻ってしまうでしょう。私たちに必要なのは、頑張って主のために何かをするということ以上に、主を恐れる心を持って生きることなのです。アーメン。

《クリスマスの祝福》

2013-12-22

 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 (ルカ2:11)

 改めて言うまでもなく、クリスマスの祝福は、私たちの救いのために、主なる神様がご自分の御子をこの地上に送ってくださったことです(Ⅰヨハネ4:9)。◇私たちは先ず第1に、なぜ神様がそこまでしなければならなかったのかを考えねばなりません。実はそれほどにまで、人間は絶望的な状況にあるのです。いまだかつて、自力で永遠のいのちを獲得した者はひとりもいません。それどころか、この地上の歩みにおいても、自分がどう生きたらよいかわからなくなっているのです。私たちのこういう姿を預言者イザヤは<私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。>(イザヤ53:6)と言っています。現在も「しかり」です。◇しかし、愛の神はこういう私たちをあわれんでくださったのです。この地上で、自力で救いを完成できる者がひとりもいないのなら、天の御国からそれが出来る者を遣わさなければなりません。だから天の神様は、ご自分の御子を遣わし、肉体をとらせてナザレのイエスとなさったのです。そして、私たちが犯したすべてのそむきの罪を彼に負わせ、十字架の刑で処罰されたのです。<神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉とおなじような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。>(ローマ8:3)。◇クリスマスの祝福は、そういう訳で、人類史上ただ一度しかない神様からのプレゼントです。クリスマスから始まって、十字架と復活、昇天と聖霊降臨まで、ただ一度きりの神様の完全な救いの御わざなのです。使徒ペテロの使信にも耳を傾けねばなりません(Ⅰペテロ2:22~25)。私たちは<キリストの打ち傷のゆえに>いやされた(る)のです。ハレルヤ。

《 運命を委ねる 》

2013-12-15

 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ1:38)

 マリヤの信仰のすばらしさは、これから自分の身に起こってくるすべてを主に委ね、任せ切ったところにあります。◇まず、当時のユダヤ社会で未婚の女性が子を産むということがどういうことだったのかを知っておかねばなりません。現在の日本の比ではありません。罪を犯した女ということで、石打ちの刑(ヨハネ8:5)にされるか、国外に追放されるかしなければならなかったのです。しかしマリヤには、心配している様子や不安におびえている様子はまったく見当たりません。初めこそ困惑しましたが(21)、ひと度それが主からの計画であると分かった時には、すべてを平静に受け入れているのです。◇さらにすばらしいのは、自分の身をすべて主に明け渡し、主にすべてを任せきっています。文字どおり献身です。<あなたのおことばどおりこの身になりますように。」>とは、なかなか言えないものです。私たちの祈りは「どうぞ、私の計画どおりこの身になりますように」の域を出ていないのではないでしょうか。自分を明け渡すということは、自分の願いや計画を一切空(から)にすることなのです。それは、やがて生じてくるであろう困難や災いさえも主にお任せすることでもあるのです。◇マリヤが変に気を回して人間的な画策を一切してないことに注目しなければなりません。ヨセフとの婚約解消の問題から始まって、ヘロデ王によるイエス殺害の危機に至るまで、ある意味でマリヤは何もしてないのです。予想どおり生じてきた危機はすべて、主ご自身によって解決して行きます。恐ろしいほどの問題続きなのに、マリヤの歩みは静かで確信に満ち、平安で揺るぎないのです。

《使命に徹する》

2013-12-08

 

しかし、私よりもさらに力ある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。(ルカ3:16)

 

Bヨハネの素晴しい信仰は、神様から与えられた使命を正しく受けとめ、それに徹底して生きたところにあります。◇先ず彼は、他人からの評価に決して動かされませんでした(15)。民衆の評価にうまく乗じたら、彼はひとつの宗教団体の教祖になれたでしょう。第二に、反対に彼は、主イエスをあかしすることに専心したのです(16)。バプテスマの説明には興味深いものがあります。そして第三に、主イエスを指し示すために、自分を徹底して低くしたのです(16b)。<その方のくつのひもを解く値打ちもない>とは、おもしろい表現です。この中で第二と第三とは、ひとつの姿勢として覚えねばなりません。主イエスをあかしするためには、自分が消えなければならないのです。◇こういう彼の生き方が、v4で見た<主の通られる道をまっすぐに整える>ことだったのです。まさに、主イエスのための「道ぞなえ」です。もう少し噛み砕いた言い方をすれば、主イエスが来易いようにする、到来した主イエスが御わざを行いやすいようにすることです。ここに、悔い改めの真意があります。悔い改めは、自分がよくなることよりも、主イエスが働きをなすことができるようにすることなのです。◇今年のクリスマスに主イエスに何かを期待するならば、私たちもヨハネになる必要があります。省みると、主イエスに自分のくつのひもを解かせ、きたない足を洗わせていることが多いのです。それどころか、自分の罪を全部主イエスに背負わせ、自分では指一本触れようとしないのです(聖163)。なんと「虫のいい十字架」でしょう。何かを悔い改めねばならないのではないでしょうか。
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《クリスマスのそなえ》

2013-12-01

 

荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。(ルカ3:4)

 

クリスマスに向かって、私たちもこのヨハネの務めに従って主を迎えるそなえができたら幸いです(5)。◇先ず<すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ>を覚えましょう。これが自然界の山や谷を指していないことは言うまでもありません。私たちのなすべき信仰のそなえを意味しているのです。谷とは、特に低いところで、それはうずめられて平坦にならなければなりません。反対に、山や丘は低くされなければなりません。実際に、ことさらなる低さや無意識の高さが、主をお迎えするのにどれだけ妨げになっていることでしょうか。◇次に覚えたいのは<曲がった所はまっすぐになり>です。この点で身に覚えのない人はひとりもいないでしょう。たいていの人は、おへそが曲がって付いているようです。本来それはお腹の中央にあるべきものなのですが、モノの考え方や受け止め方は、どうもだいぶずれているようです。特に、御ことばに対する応答はまっすぐにしなければなりません。ゆがんだ感情や偏屈な考えや意味のないこだわりなど、恵みをもたらす主の到来を妨げている<曲がった所>を<まっすぐに>しなければなりません。◇さらに最後に<でこぼこ道は平らになる>を覚えましょう。でこぼこ道とは、小さな凸凹が続いている道のことです。車ででこぼこ道を走ったときのことを思い出してください。心地よいドライヴが台無しになってしまいます。信仰生活は、なめらかで、安らかなものでありたいものです。◇このような観点に照らし合わせて、私たちは今主イエスをお迎えするそなえができているでしょうか。ヨハネが、ただ主イエスを指し示すだけでなく、なぜ悔い改めのバプテスマを説いたかを改めて覚えねばなりません。
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