浦和聖書バプテスト教会

1月, 2014年

《先ず罪の赦しを受けてから》

2014-01-26

 

人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために」と言って・・・ (ルカ5:24)

 

この物語の後半の方に目を向けて欲しいと思います。主イエスは、この人の病(中風)をいやすより先に、彼の罪を赦しています。何故でしょう。◇私たちは先ず、私たち人間の願いと神様の御旨との「ずれ」というようなことに注目しなければなりません。私たち人間は、病さえ治ればそれでよいのです。それが人生最大の障害と考えているからです。この人も、この人を連れてきた人たちも実はそうだったのです。罪が赦される必要など、あまり意識していなかったでしょう。否、むしろ人は、自分の罪には触れて欲しくないのです。罪には触れないで、病気(困難)だけ治して欲しいのです。◇しかし、神様の御こころは違います。罪の問題が解決しなければ、他のすべての面が好転しても何も変わらないからです。この人が病だけいやされてそのまま帰っていったら、その後の彼の人生はどうなるでしょう。元気になった分だけ余計に罪を重ねてしまうでしょう。実際にそんな人はたくさんいます。主イエスが、罪が増長するような救いを与えられる筈がありません。十字架の救いは、罪からの救いです。罪の解決です。ローマ8:1~4・Ⅰヨハネ3:9。もう罪に動かされないのです。◇主イエス・キリストだけが、このような救いを与えることの出来るお方です(20,21)。<神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」> このパリサイ人の言葉は真実です。人の許しは、罪をあやふやにすることはあっても、罪の力から解放することはありません。しかし、十字架の赦しは、私たちを罪の支配から解き放ってくれるのです。人生はここから始めなければなりません。罪を抱えたままでは、人はかえって神の祝福をぶち壊してしまうのです。
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《何を求めねばならないか》

2014-01-19

 

求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。 (マタイ7:7)

 

主イエスは「求めなさい。」と言われます。しかし、何を求めたらよいのでしょう。◇「何も求める必要がない。感謝なことに、私は足りている。」これは決して好ましい信仰生活ではありません。往々にして、満ち足りている姿が自己中心の姿と重なっているからです。パウロが指摘しているコリント教会の人々に目を向けてみましょう(Ⅰコリント書4:6~8)。彼らは世的な事柄においては非常に豊かでしたが、霊的な面では枯渇状態だったのです。黙示録に出てくるラオデキヤの人々もこのよい例でしょう(黙示録3:17)。求めるものを見失うと、私たちだってこのようになりかねません。◇反対に聖書の中では、何かに飢え渇いている姿を決して悪いものとは見ていません。例えばマタイ5:5、主は義に飢え渇いている者を幸いだと言っておられます。詩篇42もそうでしょう。自分の霊的欠乏に気付き、それを満たそうとしている姿こそ生きた信仰生活です。さらに、自分のことだけで済まされません。少し目を外に向けるだけで、私たちの周囲には救いを必要としている人々が<羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている>(マタイ9:36)のです。この人たちのために、何を求めねばならないのでしょう。◇私たちは、自分だけでなく、愛する人々のためにも神様を求めねばならないのです。この「山上の説教」の中で主イエスは<だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。>(6:33)と命じておられます。いにしえの預言者たちも同じメッセージを繰り返し告げています(イザヤ55:6 ホセア6:3)。神様を求めることは、私たちが最もしなければならないことなのです。先に救われたクリスチャンの責任であり、義務なのです。アーメン。
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《ご自身の名誉にかけて》

2014-01-12

 

わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。 (イザヤ書43:25)

 

主なる神は、ご自分の民が罪の生活を続けることを許されはしません。ご自分の聖なる御名が貶められるからです。◇<わたし、このわたしは、わたし自身のために>という言い方に注意しなければなりません。もしこれがだれか人の言葉なら、何と自己中心で傲慢な言葉でしょうか。しかし、これが絶対主権者であられる主のことばであるがゆえに素晴しいのです。主は、ご自分の名誉にかけて、わたしたちを罪の思い、罪の生活から贖い出してくださるのです。なぜなら、神の民がいつまでも罪の中にいるなら、主ご自身の誉れに傷がつくからです。そして主イエスの十字架は、何の実行力も持っていないことになってしまうからです。◇ですから主イエスの十字架は、一義的には私たちが罪から救われて幸せになるためではなく、主ご自身の尊厳と威光のためなのです。私たちの救いと幸いは二義的なものであって、それは一義的な意味と相俟っているのです。このすぐ前の数節には、イスラエルの不信仰を責める主の厳しいことばがあります(~24)。これが私たちの現実なのではないでしょうか。だから主ご自身が罪を贖われるのです。私たちに任せたら失敗するのが見えているからです。◇しかし、幸いです。主がご自分のために罪を贖われるということは、これほど確かなことはないからです。ペテロも<あなたがたの信仰と希望は神にかかっている>(Ⅰペテロ1:21)と言っています。もし私次第で私の信仰生活が決って行くのなら、それほど不確定で不安定な人生はないでしょう。<神にかかっている>とは、私の人生のすべてを、神ご自身がご自分の責任で引き受けておられるということなのです。ハレルヤ。

《主に贖われた者として》

2014-01-05

 

「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。(イザヤ43:1)

 

この年がどんな一年になろうと、私たちは主に贖われた者として生きて行かねばなりません。◇先ず第1に、主に贖われているということは、私たちが主のものとされているということです。自分の人生を自分のものと考えるのはこの社会では当たり前のことですが、私たちにとってはそれはふさわしくないのです。主は<あなたはわたしのもの>と言われます。新約聖書の中でもまったく同じことが告げられています(Ⅰコリント6:19,20)。私たちは代価を払って買い取られ、今は主のものとされているのです。◇ですから私たちクリスチャンは、神様にとって特別な存在なのです。<わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。>(4)と主は言われます。間違わないようにしなければなりません。これは、私に特別な価値があるから尊いという意味ではありません。主が贖われたものだから尊いのです。言い換えれば、私たちは高価であるから贖われたのではなく、贖われているから高価で尊いのです。<わたしはあなたを愛している。>というみことばも同じように解釈しなければなりません。高価だから愛しているのではなく、愛しているから高価なのです。◇このような主が私たちとともに歩んでくださるのですから、何と心強いことでしょうか。<恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。>(5)と主は言われます。たとえ私たちが<水の中>を通らなければならない時でも、また<火の中>を歩まなければならない時でも、主なる神様は私たちとともにいてくださり、流されることもなく、焼かれることもないのです(2)。贖われた者だから、私たちにはこういう人生が保証されているのです(7)。


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