浦和聖書バプテスト教会

2月, 2014年

《求めるためのパフォーマンス》

2014-02-23

 

求めなさい。・・・ 捜しなさい。・・・ たたきなさい。  (マタイ7:7)

 

求めることは、単に心の中で何かを願うことで終わってはなりません。願いはあっても、求めることをしない人が多いのです。主イエスが続けて<捜しなさい。><たたきなさい。>と言われた意味を考えねばなりません。◇先ず<捜しなさい>ですが、当時ではこのパフォーマンスは、健全な目(6:22,23)と足によってなされたのです。求めるということが、こういうからだを伴った行動であったことを忘れてはなりません。足を使って捜し回って見つけるのです。そして、見つけたとは、願っていたそのものがそこに在ることが確認できたことを意味しているのです。◇次に、在ることが確認できたら、今度は門をたたくことです。これは、目と手でなされる行動です。在ることが確認できたのに、そこで引き下がってしまう人もけっこう多いのです。それでは願っているものを手に入れることは出来ません。ルカ福音書11:5~10の主イエスのたとえを学ぶ必要があります。この友人のところにはパンがあることが分かっているのです。だから彼は、真夜中であっても、1度や2度断られてもひるまなかったのです。同じ趣旨のたとえが18:1~8にも語られています。この<ひとりのやもめ>は何度裁判官の門をたたいたでしょう。◇私たちは、求めるということをここまで含めて考えねばなりません。心の願いだけで終わってしまっている人が実に多いのです。願っても、求めなければ与えられません。求めていても、捜さなければ見つかりません。見つけても、門をたたかなければ開かれないのです。今、私たちは、恵みの主に何をどんな風に求めているでしょうか。求めるということを心だけの課題で片付けないで、今度はからだと生活全体の課題として捉えねばならないのです。
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《恐れのある日に》

2014-02-16

 

恐れのある日に、私は、あなたに信頼します。・・・ 私は神に信頼し、何も恐れません。肉なる者が、私に何をなしえましょう。(詩篇56:3,4)

 

<恐れのある日に>とありますが、この時ダビデはどんな恐れの中にあったのでしょう。表題に、この詩篇の背景となっている出来事が示されています。<ペリシテ人がガテでダビデを捕らえたときに>とは、Ⅰサムエル記21:10~15の出来事です。ダビデは捕らえられたとき、とっさに気のふれた振りをして生きのびたのです。◇ある人は、このダビデの姿は56篇の告白とは矛盾するではないかと疑問に思うかも知れません。表面的にはそう見えなくもありません。ダビデはガテの王アキシュを恐れ、自分が殺されること恐れていたのです。しかし、このような窮地で、気のふれた男を演じることが出来るとは驚きです。しかも、まんまと王アキシュを欺くことが出来たのですから、相当迫真に迫る演技だったと思われます。普通の人ならとてもこんな振舞は出来ないでしょう。心の中の恐れをそのまま出してしまい、その結果命を奪われてしまうのです。◇<恐れのある日に>とあります。恐れを感じないのが決して強い信仰なのではありません。恐れを感じる自分を責めてはならないのです。むしろ、何も感じない鈍感さや、偏った信念の故に恐れを恐れと思わないほうがよっぽど問題なのです。◇大切なことは、恐れのある日にどう生きるかです。v11には<私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう。>とも告白されています。人を恐れず、神を信頼して生きる。これが私たちの生き方です。ルカ12:4,5。人を恐れるから神様を信頼できなくなり、神様を信頼してないから人を恐れることになってしまうのです。ダビデの迫真の演技は、神を信頼していたからこそ出来たと言えないでしょうか。
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《失ったものを取り戻す》

2014-02-09

 

神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。 (詩篇55:1)

 

この長い詩篇の中で、ひとつの点、即ち隠された罪が何を失わせていたかに注目してください。◇先ず何と言っても、きよい神の霊の働きを失っていたのです(10,11)。これは最も重大で深刻な状態と言わねばなりません。クリスチャンが聖霊の働きを失ったならば、もう世の人と同じだからです。新約聖書においては、こういう状態を御霊を消してしまっている状態(Ⅰテサロニケ5:19)、また神の聖霊を悲しませている状態(エペソ4:30)と伝えています。これは無自覚ですが、霊的な事柄や神様の御わざは無自覚なことが多いのです。◇第二に、隠された罪は<救いの喜び>と<仕える喜び>を失わせます(12)。これはかなり自覚的に確めることができます。自分のうちに、救いの喜び、奉仕の喜びがないなら、それはたいてい隠された罪が原因なのです。さらに付け加えて覚えたいことは、この喜びは一時的に燃え上がる感情の喜びではなく、永続的で消えることのない理性的な喜びなのです。信仰生活がこの喜びによって支えられてないなら、それは退屈でつまらない生活になってしまうでしょう。◇さらにv13。隠されている罪は、あかしの力を奪います。<そむく者たち>に救いの道、主の道を証言することが出来ないのです。それのみか、そむく者たちの言いなりの人生にされてしまうのです。これでは、誰かを主の救いに導くことなど出来るはずがありません。あかしの生活は闘いです。闘いには闘う力が必要なのです。◇では、これらがもし失われているなら、どうやってそれを取り戻したらよいのでしょう。それは、この詩篇全体が明らかにしています。主のみ前に罪を悔い改めることです。これしかありません。これ以外の方法で取り戻そうとするから、人間的になってしまうのです。

《主が見えなくなった時》

2014-02-02

 

起きてください。主よ。なぜ眠っておられるのですか。目をさましてください。(詩篇44:23)

 

この詩篇をよく理解するためには、全体に目を注いでみる必要があります。信仰生活の現実を見事に描き出しているからです。◇先ずv1~8。彼らは先祖たちのあかしを聞き、そこに明らかにされた信仰姿勢を踏襲して主の祝福を受けてきたのです。注目したいのは、自分を誇らず、自分の力に頼らず、主の救いの御わざによって生きてきたことです(v3,6)。これは、時代を超えた原則的な信仰姿勢と言えるでしょう。祝福は主から来るのです。それは、主に拠り頼む者の上に来るのです。◇ところが、今彼らは、この原則が崩れた現実に直面しています(v9~19)。<それなのに>ということばは、原則どおりに行ってない彼らの苦境をよく物語っています。加えて、その理由が全く分からないことも意味しています。自分に落ち度があってこうなるのなら納得ですが、思い当たる節はないのです。<それなのに>主は私たちを拒んでおられる。理由も意味も分からないのに主の臨在が見えなくなっているということです。しかし彼らは、このような状況でも、堅く信仰に立って歩み続けているのです(v17~19)。これは何と素晴しいことでしょうか。原則どおり行かないからこそ、なお信仰が必要になるのです。◇最後に、彼らの内省する姿と祈り求める姿に目を向けましょう(v20~26)。v20,21は、自分の信仰の中に偶像礼拝的な要素がないことを確認している告白と読んでよいでしょう。<だが><それなのに>なのです(22)。さらに、こういう状況なればこそ、彼らは主が臨んでくださるよう祈り求めているのです(v23~26)。主の臨在が見えないなら、主が臨んでくださるよう祈るしかないのです。しかし、この祈りが、私たちの人生を先に進めさせるのではないでしょうか。
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