浦和聖書バプテスト教会

4月, 2014年

《人生の危機に立ち向かう》

2014-04-27

 

イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」(マルコ4:40)

 

<激しい突風>ということばに関心が引きつけられます。予測不能の災いです。◇それにしても何故主イエスは神の力を働かせてこの嵐を予測しなかったのでしょう。初めから分かっていたら、こんな危険な目に遭わずに済んだのです。この舟旅は、主イエスのほうから誘っておられるではありませんか(35)。突風を鎮めることができるお方なら、むしろ突風に遭わないようにしてもらいたいものです。それは万人の願いです。そして、神であられる主イエスには、もち論それは可能です。◇しかしここでは、主イエスはそれをなさらなかったのです。のべつ幕なしに神の力を発揮して、一切の危険に遭わないようにすることも可能ですが、ここでは主イエスは「人の子」として生活しておられるのです。疲れれば眠くなるのです(38)。これが日常の主イエスの姿です。「できないからしない」のと「できるのにしない」のとは、わけが違います。「人の子」となられた主イエスは、すべての点で、私たちと同じように試みに会われたのです(ヘブル4:15,16)。◇弟子たちの姿に目を向けてみましょう。主イエスの叱責のことばで分かるように、初め彼らは、この突風に普通の人のようにしか対処できなかったのです。慌てふためき、こわがるだけでした。これでは、なぜ主イエスを信じて従っているのか分からないではありませんか。信仰が生活の中で活かされていないのです。◇彼らが身の危険を感じて主イエスに訴えた時、主は神の力を働かせてくださいました。「黙れ、静まれ」のひと言で、荒れ狂う湖を鎮められたのです。私たちの心も、今、この主イエスのひと言を必要としているのではないでしょうか。風はやみ、大なぎの人生が始まるのです。
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《 イースター 》

2014-04-20

 

「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。(ルカ24:5,6)

 

イースターは、私たちにとって最も喜ばしい日です。イエス様が墓からよみがえられたからです。◇少しイエス様の歩みを振り返ってみましょう。イエス様は先週の木曜日の夜捕らえられて、一晩中わけのわからない裁判を受けさせられ、翌金曜日の朝9時に十字架につけられました。そして恐ろしい死の苦しみを味合われ、午後3時ごろ大声を上げて息を引き取られました。遺体はその日のうちに布にくるまれ墓に収められました。弟子たちはみんな逃げてしまい、イエス様を信じていた人々は大きな悲しみと失望に捕らえられてしまったのです。◇もしこのままイエス様がよみがえられなかったら、どうなっていたでしょう。逃げた弟子たちは戻ってこなかったでしょう。イエス様を信じていた人々も、イエス様を救い主と信じることを止めてしまったでしょう。しかし、イエス様は今日の<明け方早く>よみがえられたのです。女の人たちが墓に行ってみると、なんと墓はからっぽでした。イエス様の遺体をくるんだ布は解かれ、頭の部分は巻かれたまま残っていたのです。◇初めはだれもイエス様の復活を信じることができませんでした。しかし、よみがえったイエス様は次々と現われてくださったのです。最初はマグダラのマリヤ、それから弟子たち、その後には<五百人以上の兄弟たち>にも現われてくださったのです(Ⅰコリント15:6)。時には、復活したイエス様は弟子たちと食事までしておられます(ヨハネ21章)。そして40日目に、弟子たちの見ている前で天に帰って行かれました(使徒1:9)。今イエス様は天の御国から私たちを見守ってくださり、とりなしていてくださるのです。ハレルヤ!
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《パームサンデー》

2014-04-13

 

 「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」  (ヨハネ12:15)

 

きょうはパームサンデー(しゅろの木の聖日)と呼ばれる日です。この日、主イエスは最後のエルサレム入城をされました。◇ちょうど過越しの祭り時で、<大ぜいの人の群れ>が、しゅろの木の枝を道に敷いて主イエスを出迎えたのです。人々は「ホサナ」(詩118:25)と叫んで、大きな喜びを持って主を歓迎したのでした。主もそれをこころよく受け入れられ、<ろばの子に乗って>ゆっくりと街に入って行かれました。何ともほほえましい光景です。しかし同時に、何となくこっけいでもあります。◇しかし、実は、これには重要な意味があったのです。ゼカリヤ書の預言に目を向けねばなりません(9:9,10)。先ず第一に、主イエスは私たちの救いを成就するために街に入られたのです。もち論、この後の十字架で私たちの贖いを為し遂げるためです。しかも、ろばの子に乗られた意味は<柔和>(へりくだり)を現しておられたのです。神の子としての絶対的権威をかなぐり捨てて、幼子でも親しんで近づくことのできるお姿です(ピリピ2:6~8)。さらにこの王は、<戦車>や<戦いの弓>で平和をもたらそうとするお方ではなく、かえってそのような世的な武力を取り除かれ、<地の果て>に到るまで真の平和をもたらすお方なのです(ゼカ9:10)。◇主の弟子たちも、初めは<これらのことが分からなかった>ようです(16)。<しかし、イエスが栄光を受けられてから>すべてが理解されて行ったのです。もち論、当の主イエスはすべてをご存知であられました(ルカ9:22・28~31)。ろばの子の背中でほほえんでおられた主イエスの胸中では、すでに、数日後には十字架で殺されなければならないことが覚悟されていたのです。私たちは、このような主イエスをどのようにお迎えするのでしょうか。
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《ゲッセマネの祈りに習う》

2014-04-06

 

「わが父よ。できますならば・・・。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:39)

 

十字架の死を目前にした主イエスは、もだえるような悲しみの中でこう祈られました。◇<この杯をわたしから過ぎ去らせてください。> この前半の祈りは、私たちにもよく分かります。十字架の悲しみ、苦しみを思えば思うほど、こんな屈辱と不条理に敢えて向かう人はひとりもいないからです。私たちは、時には、尊い愛と義を担う場合でさえも、生じてくる苦しみを避けてしまうのです。「苦しみは避けて通りたい」これが私たちの本音です。現に今も、私たちは何らかのこの願いを祈りつつ生きているのです。◇私たちが注目し、自分のものとしなければならないのが、後半の祈りではないでしょうか。<あなたのみこころのようになさってください。>このように祈ることができている人がどれほどいるでしょうか。「あなたのみこころのようでよいのですが、十字架だけは嫌です。」こんな心の中の本音が聞こえてきます。私の希望、私の願い、私の計画等々、みんな「私の」が付いていて、それがみこころでなければ納得しないのです。しかし、<みこころのように>には、<わたしの願うようにではなく>が絶対に伴っていなければならないのです。◇大げさでなく、これが献身の祈りなのです。文字通り、この後主イエスは、ご自分のからだを私たちの贖いのために捧げてくださるのです。献身の祈りは、十字架に向かう祈りです。今、私たちに必要なのは、このような「献身の祈り」ではないでしょうか。この祈りがないから、逃げるだけ、避けるだけの人生になってしまうのです。十字架に立ち向かう力は、父から来ます。<立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」>(46)
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