浦和聖書バプテスト教会

5月, 2014年

春の特別集会

2014-05-25

 

きょう、もし御声を聞くなら、・・・・あなたがたの心をかたくなにしてはならない。(詩篇95:7)

 

先週の礼拝で、私たちはこのみことばを開きました。そしてきょう、このみことばを実践する時を迎えています。◇今日の二回の集いで、神様は私たちにどんな御声をかけてくださるでしょうか。漫然と時を見送ってしまわないで、いつも以上に心を研ぎ澄まして、みことばに耳を傾けねばなりません。毎年の例ですが、特別集会の折には、主は特別に働いてくださいます。私たちは「主よ。お話ください。しもべは聞いております。」(Ⅰサムエル記3:9)の姿勢をもって集会に臨みたいと思います。みことばは語られるのです。◇主イエスも、みことばを語る折には、度々「耳ある者は聞きなさい」と注意を促しておられます(マタイ13:9)。みことばが語られても「聞く耳」を持っていなければ、みことばは風のようにむなしく通り過ぎてしまうのです。主イエスは「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。」とも語っておられます(同16)。みことばの恵みを心に留めなければなりません。よもや『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない』(同14)というようなことにならないようにしましょう。◇さらに大切なのは、みことばを聞いたら、今度はそれをこれからの自分の生き方に据えることです。聖書は<また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。>(ヤコブ1:22)と戒めてくれています。みことばの恵みは、古い生き方を捨てて、新しい生き方を始めてゆく者に結実して行くのです。

心から祝福をお祈りします。アーメン。

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第2集会の音声はこちら

《 神と私たち 》

2014-05-18

 

  主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。  (詩篇95:7)

 

ここだけでなく、聖書の中では多くの箇所で、神様と私たちの関係を羊飼いと羊の関係になぞらえています。◇このことから最初に確認しておかねばならないことは、私たちは、羊飼いから離れた羊であってはならないということです。聖書はそういう状態にあることを「罪の中にある」と言っているのです。羊は羊飼いなしに生きて行けないはずです。本当は、羊飼いのもとから失われている人生ほど危険な人生はないのです。それこそ、的はずれな人生、失われている人生、罪の人生なのです。私たちは先ず何よりも、主なる羊飼いのもとに立ち返る必要があるのです。◇次に、羊は羊飼いに従うことが大切です。この点は、この詩篇の後半で分かりやすく説かれています。<きょう、もし御声を聞くなら・・・・あなたがたの心をかたくなにしてはならない。>と言われています。興味深いのは、出エジプト後の先祖たちの例が挙げられている点です。ご存知のように、彼らは、せっかくエジプトの奴隷状態から救い出されたのに、約束の地に入れたのはたった二人だけで、あとの者はみな荒野で死に絶えてしまうのです。理由は、彼らの「かたくなさ」です。万が一にも、私たちがこんなことになってはなりません。◇さらに加えて、羊飼いに従うことは感謝と喜びをもってなされるべきです。これがこの詩篇の前半です(v1~3)。いやいやながら従うことも従わないよりはるかにましですが、感謝と喜びをもって従うこととは大きな違いがあるでしょう。主は、喜んで従う者には特別に応えてくださるのです。感謝と喜びをもって従う羊といやいやながら従う羊とを見比べてみてください。その生き様は、嬉々としているか、死んでいるように見えるか、の違いとなって現われてくるのです。
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《己の義か神のあわれみか》

2014-05-11

 

なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ18:14)

 

この主イエスのたとえ話には、ふたりの対照的な人物が描かれていて、たいへん興味深いものがあります。◇まずパリサイ人。彼は軽蔑されるべき人を列挙して、自分がその類の人間ではないことを神に感謝しています(11)。ネガティヴな誇りです。加えて、神の前になすべきことを挙げて、自分がそれらを行っていることを誇示します(12)。ポジティヴな誇りです。あたかも「自分は罪を犯していない。すべて神のみ旨を行っている。」と、神に己の義を認めさせようとしているかのようです。これは、己の義によって神の救いを得ようとする人の典型的な姿です。◇比して取税人の方は、宮に近づくことも、神を礼拝することもできず、ただ自分の胸をたたいて自分の罪を嘆き、神のあわれみを求めるだけです。彼には神に誇れるものは何もなく、かえって神のさばきを受けて当然の自分であることを痛み、ひたすら神のあわれみを求めているのです。しかし主イエスは<この人が、義と認められて家に帰りました。>(14)と話を結びます。このたとえ話は、己の義を誇る者と神のあわれみを乞う者とを見事に描き出しているのではないでしょうか。◇ヤコブ書2:10~13を開きましょう。この箇所は、主イエスのたとえをそのまま解説しているような箇所です。己の義によって救われようとする者は、すべての律法を、しかも完全に守らなければなりません。それができる人はひとりもいません。私たちは、神のあわれみを乞うしかないのです。<あわれみは、さばきに向かって勝ち誇る>(同13)とは印象的なことばです。ペテロも同じ趣旨のことを語っています(Ⅰペテロ2:10)。重要なことは、<今>神のあわれみを受けているかどうかなのです。
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《主に戒められる人》

2014-05-04

 

主よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに戒められ、あなたのみおしえを教えられる、その人は。(詩篇94:12)

 

この詩篇が興味深いのは、前半に(v1~7)、主に戒められない人の姿が描かれているからです。◇彼らは<高ぶる者>とも<悪者ども>とも言われています。いつの世でもおんなじなのでしょうか、一見彼らは大いに繁栄しています。彼らは<勝ち誇り>、神の民を悩まし(5)、弱い者を虐げています(6)。やりたい放題です。何よりこわいのは、神様を全く無視していて平気なのです(7)。「主は見ることはない。ヤコブの神は気づかない。」と。◇しかし、主なる神はすべてをご存知なのです(v8~11)。すべてを聞いておられ、すべてを見ておられます。<気づけ。民のうちのまぬけ者ども>(8)と強く促されていることに注意しなければなりません。気づいていないのは、悪を重ねる人たちなのです。この詩篇が<復讐の神、主よ。復讐の神よ。光を放ってください。>という強い願いで始まっていることにも注目しなければなりません。全知全能の神は、必ずそれぞれに報いられるお方なのです(ガラテヤ6:7~9)。◇主に戒められる人は幸いです。それは愛されていることのしるしであり、神の子どもとされていることのしるしなのです(ヘブル12:4~8)。反対に、罪の生活を続けていても何の戒めも受けないなら、それこそ<私生児>です。人は自分の思いのままの生活ができれば、それが自由であり、時には恵みであるとさえ思ってしまいます。とんでもないことです。神様から何の戒めも受けないとしたら、それほど不幸なことはありません。私たちは、悪者の繁栄をねたましく思ってはなりません(92:7)。<わざわいの日に>神様からの戒めを受けている者の真の幸いが明らかになるのです(13)。アーメン。
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