浦和聖書バプテスト教会

7月, 2014年

《赦されねばならない罪は?》

2014-07-27

  まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。  (イザヤ53:4)   イザヤは主イエス・キリストの700年も前の預言者です。しかし、彼は、あたかも主イエスの十字架を目撃したかのように、主の贖いのみわざを語っています。まるで事後預言のようです。◇まず、私たちの罪の姿に目を向けねばなりません。<私たちのそむきの罪のために>(5)とあります。勿論、神に対するそむきです。v6には、もう少し分かりやすく描かれています。<おのおの自分かってな道に・・・>とは、神にそむく人間の普遍的な姿です。今日でも、反道徳的な罪、反社会的な罪は言うまでもなく、真面目に一生懸命生きている人も、相変わらず神にそむいているのです。この「そむきの罪」が、私たちにとって最も重大で深刻な罪なのです。何故なら、そむきの罪は、何よりも人格的な関係を破壊するからです。◇しかし、愛の神は、こういう私たちを取り戻そうとしてくださったのです。そのために、ひとりの<しもべ>をこの世界に遣わし、彼に全人類のそむきの罪の責任を負わせたのです。<彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され>と語られています(5)。また<主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。>とも言われています(6)。まさに主イエス・キリストの十字架の贖いです。◇赦されねばならないのは「そむきの罪」なのです。私たちは、個々の具体的罪にこだわるあまり、この「そむきの罪の赦し」を忘れていないでしょうか。神にそむく罪は全人格的な罪であり、その罪の赦しは全人格的な赦しなのです。「これ、あれ」といった部分的、個別的な赦しではなく、私という存在のまるごとが赦されるのです。ここから新しい人生は始められねばなりません。そむきの罪が赦されて初めて、主なる神との交わりが回復するのです。詩篇32:1,2。
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《求められているものは?》

2014-07-20

 

  『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから・・・(マタイ25:21)

 

主イエスの有名な「タラントのたとえ」です。◇先ず最初に、タラントは<おのおのその能力に応じて><預け>られているものであることに注目しましょう(14,15)。預けられているということは、それは本来主人のものであるということです。即ち、それを自分のものと考えてはいけないのです。主人のものですから、当然主人の益のために用いなければなりません。ここに私たちが改めねばならない点があります。<能力に応じて>とは、主人は、ひとりひとりのしもべの能力を知っていてくださり、その能力にふさわしいタラントを預けてくださっているということです。人はこれを差別と考えますが、2タラントのしもべに5タラントの仕事をしなさいと言うほうが、よっぽど酷です。◇帰ってきた主人の評価に注目してください。v21とv23はまったく同じです。その中でこの主人は<わずかな物>に忠実だったと言っています。この主人から見れば、みんな<わずかな物>なのです。なぜなら、この世界のすべての物は主のものだからです(詩24:1)。しかし、同時に<たくさんの物を任せよう>とも言われます。不足はないのです。私にとっては、それはいつも充分であり、たくさんの物なのです。◇求められているものは、大きな働きでもなく、よい結果でもありません。預かったタラントを忠実に用いることなのです。結果はそれについてくるものです。そして忠実であることは、誰にも出来ることです。1タラントのしもべが『悪いなまけ者のしもべだ。>と叱責されている理由がここにあります。彼はタラントを<隠した>のです(18)。v29の主イエスのみことばは真実です。主は、忠実なしもべだから、ますます賜物を預けてくださるのです。
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《 山が動く 》

2014-07-13

 

だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。(マルコ11:24)

 

主イエスがのろったいちじくの木が、ひと晩で根まで枯れてしまいました。驚いている弟子たちに、主は信仰を持つことの大切さを教えられたのです。◇先ず、信仰は山をも移す力を持っているということです(23)。もち論これは、信仰者本人にその力があるというのではありません。人の力は多少の格差はあっても、みなお同じようなものです。これは、信じている主なる神が超自然的なみわざを行われるという意味です。人には出来ないことであっても<神にはどんなことでもできる>のです(マタイ19:26)。ですから私たちは、この全能なる主に祈り求める必要があるのです。私が山を動かすのではなく、主がなしてくださるのです。◇自分の人生において一度でも山が動いた経験をしている人は、その後の人生においてどんな山が立ちはだかっても、決してひるむことはないでしょう。山が大きければ大きいほど、ますます全能の主に祈り求めることが出来るのです。そうやって私たちは、天の御国に行き着くまで、いくつもの山を動かしてゆくのです。山が動いて海に入ると、行く道は平らになり、また阻んでいた海に道ができます。主の備えてくださる道は<小道>で<恵みとまこと>です(詩25:4,10)。◇戦いは山にではなく私にあります。大切なことは<心の中で疑わず>です。ヤコブは<疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようだ>と語っています(ヤコブ1:6~8)。多くの人が、自分が祈ったことを自分で信じていないのです。主イエスも戒めて<祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。>と言われます。山が動かない理由は、どうやら私の心の中にあるようです。「すでに得たり」と信じる信仰を逞しく、揺るがないものにしたいものです。
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《主から来る力》

2014-07-06

 

主は永遠の神、地の果てまで創造された方。・・・ 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。 (イザヤ40:28,29)

 

クリスチャンの力は、私たちが信頼している主なる神から来ます。◇このことを体験的に知っている人とそうでない人とは、長い信仰生活に大きな差が出てきてしまうようです。なぜなら、このことを知らない人は、信仰生活も自分の力で頑張るしかないからです。しかし、自分の力には限界があることも事実です。<若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。>(30)とあります。人生で一番力のみなぎっている若者も、こういう現実があるのです。信仰生活は自分に頼ったらかえって失敗する、と心得ていてよいでしょう。◇力と勝利は主なる神からくるのです。<主は永遠の神。地の果てまで創造された方。>です。このお方が、私たちのすべてを知っていてくださるのです。私の正しい訴えが見過ごしにされている(27)などということは絶対にないのです。主イエスも<祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。>(マルコ11:24)と勧めておられるではありませんか。当時のイスラエルのように、私の正しい訴えが見過ごしにされていると<言い張る>のなら、それは自分をますます不信仰に追い込んでいるのです。◇<主を待ち望む者は新しく力を得>(31)とあります。今ある力ではなく、「新しい力」です。この力は先ず、鷲のように天に上る力です。天に向かう力、神に近づく力です。同時にこの力は、<走ってもたゆまず、歩いても疲れない>力です。「走る、歩む」は、この地上の生活をやり遂げる力を指しているのでしょう。即ち、神様に向かう力を持っている人は、地上での生活も逞しいのです。この難しい時代を生きて行く私たちには、このような神様から来る力が必要なのではないでしょうか。
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