浦和聖書バプテスト教会

9月, 2014年

《人生という重荷》

2014-09-28

 

  すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)

 

人にはそれぞれ担うべき自分の人生があります。それはどんな人生であれ、決して軽いものではありません。また、決して他人に代わってもらうことも出来ません。自分の人生は自分で生きて行かねばならないのです。◇主イエスは<すべて、疲れた人、重荷を負っている人は>と呼びかけておられます。これを他人事と片付けられる人は恐らくひとりもいないでしょう。時には自分の人生がとても重く感じられることがあります。何か問題が生じた場合などそうです。逃げ出したくなったり、放り出してしまいたくなることもあります。しかし、そう出来ないのが自分の人生です。何があろうと、自分の人生は自分で担わなければならないのです。◇しかし、幸いなことに、主イエスは<わたしがあなたがたを休ませてあげます。>と言われます。なんと有難い御ことばでしょう。イエス・キリストは疲れをいやしてくださるお方なのです。そしてそれは、これまでの人生とはまったく違う、新しい人生が始まることを意味しているのです(29)。くびきでつながれた二頭の牛が重い荷物を引いて行く様を思い浮かべてください。一頭が主イエス、もう一頭の方が私なのです。重い荷物こそ私の人生です。◇信仰による人生をこのように描いてみると、主イエスが<わたしのところに来なさい。>と招いておられる理由がよく分かります。私たちには、主の救い、主の助けが必要なのです。これからの人生を主イエスとともに歩んで行くのです。そうしなければ<たましいの安らぎ>は何時になってもやってこないでしょう。信仰による人生こそ、私にちょうど良い<ここちよい>人生なのです。
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《悔い改めを貫徹した人》

2014-09-21

  ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。(Ⅱサムエル記12:7)

 

ダビデは「キリストの型」と呼ばれるほどの人物です。しかし、主イエスとの決定的な違いは、主イエスは一つの罪もないお方でしたが(Ⅰペテロ2:22)、ダビデは恐ろしい罪を犯してしまったのです。◇その罪とは、姦淫の罪とそれを取り繕うとして犯した殺人の罪です(11章)。神がこれを黙って見逃すはずがありません。預言者ナタンを遣わし、一つのたとえを語らせ、隠していたダビデの罪を抉り出したのです。それが冒頭の聖句です。◇素晴しいことに、ダビデは即座に悔い改めました(13)。しかも、誰かさんのような言葉だけの悔い改めではありません。ダビデはこの後の生涯、いのちをかけて悔い改めを貫徹するのです。まず、生まれた子が病気になります(15)。簡単に人の命を奪ったダビデは、この子を生かすために苦しみもだえます。身をもって命の重さ、尊さを知るのです。しかし主は、この子の命を取られます。続けて、事もあろうに自分の子どもたちの間に姦淫の罪が入ってきます(13章)。アムノンとタマルの破廉恥な事件です。さらにこの事件をきっかけにして、子供同士の殺し合い(13:23~タマルの兄アブシャロムの復讐)、さらに罪は拡大してそのアブシャロムの謀反にまで及びます(15章)。挙句の果て、ダビデはアブシャロムをも失ってしまうのです。◇自分が蒔いた種とは言え、見様によっては何と苦難に満ちた人生でしょう。しかし、私たちが留意しなければならないのは、これらの苦難の中でもダビデは二度と不従順の罪を重ねなかった点です。時には小さな失敗もありました。それでも悔い改めの人生を貫いたのです(24:17)。悔い改めとは、一つ一つの積み重ねです。主に向かう従順な姿勢なのです。それを貫いて行くから、キリストに似た者に変えられて行くのです。
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《神に退けられた人》

2014-09-14

 

あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。(Ⅰサムエル記15:23)

 

イスラエルの初代の王サウルです。彼は、主から王位を授かったのに、不従順のゆえに終に退けられたのです。◇先ず、どんな不従順なのかを見ておきましょう。主は、アマレク人を打ち、すべてを聖絶せよと命じられました。それにはそれなりの理由があってのことです(1~8)。ところがサウルとイスラエルの民は<最もよいものを惜しみ><ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶した>のです(9)。これは、概ねは主の命に従っていますが、まったき従順ではありません。まして民を治める立場にある者が民といっしょに罪を犯しているのでは、神の怒りを買うのは当然です。◇さらにサウルは、サムエルから不従順を指摘されても自己弁護ばかりです(19~21)。「私は主の御声に聞き従いました。・・・しかし民は・・・」と、責任を民に転嫁しようとしています。さらに興味深いのは、なぜ良いものを惜しんだのかと言うと、主に良いいけにえをささげるためだと言っています。自分の不従順に信仰的な理由をあてがって罪を正当化しているのです。あたかも「主のために罪を犯した」と言わんばかりです。しかし、どんなにもっともらしい理由をつけても、不従順は不従順です。◇v22のサムエルの告げたことばに留意しなければなりません。どんないけにえよりも、主は従順を喜んでくださるのです。不従順をいけにえで帳消しにすることは出来ません。信仰生活は、みことばに対する忠実と従順でなされるものです。いけにえもその現れでなければなりません。不従順をいけにえで穴埋めして済まそうとするのは、いかにも人間的です。サウルは、ここまで来て、もはや悔い改めの言葉さえ受け入れてもらえなくなっていたのです(24~26・35)。<参>Ⅰ歴代誌10:13,14

《神によって解決する》

2014-09-07

 

シロでの食事が終わって、ハンナは立ち上がった。(Ⅰサムエル記1:9)

 

確かに神を信じているのに、ことが自分の問題になると、その信仰を活かせない。こいう人はけっこう多いのではないでしょうか。◇サムエルの母ハンナもそうでした。子どもがないこと、ペニンナのいじめ、夫エルカナの無理解等で、せっかくの、年に一度の楽しいはずの時も、彼女には苦しい嫌な時でしかなかったのです。「めそめそうじうじ」という形容がぴったりの生活を送っていたのです。私たちはこれが、神を信じているのに自分の問題を神によって解決できないでいる人の姿であると知らねばなりません。信仰が自分の実際の生活の中で活かされていないのです。◇しかし、ある時ハンナは、こういう人生に終止符を打つために<立ち上がった>のです。自分を悩ませている問題を初めて主のもとに持っていきます。<彼女は主に祈って、激しく泣いた。>(10)とあります。私たちは、これが自分の問題を主に委ねるための苦悶の祈りであることを覚えねばなりません。加えて覚えたいのは、彼女はただ願いが叶えられることだけを祈ったのではないのです(11)。この点も、私たちは学ばなければなりません。願いが叶ったら、主に何をお返しするのでしょう。願う時にそれを主に約束しているのです。<請願を立てる>とは、こういうことでしょう。◇最後に、祈って委ねることができた彼女の姿に目を向けましょう。<彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。>(18)と記されています。すがすがしい晴れやかな彼女の笑顔が見えてくるではありませんか。信仰によって勝利を得た人の笑顔ほど美しいものはありません。v19には、<主は彼女を心に留められた。>とあります。これが、信仰による勝利、神によって問題を解決するということではないでしょうか。
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