浦和聖書バプテスト教会

10月, 2014年

《たましいの安らぎ》(特別集会)

2014-10-26

 

  わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 (マタイ11:29)

 

ひょっとしたら、今の私たちに最も必要とされているのは<たましいの安らぎ>なのかも知れません。◇今の日本の社会は、戦争が行われている訳でもなく、不満を抱えた人たちが闘争を起こしている訳でもありません。世界の他の国々と比べてみても、日本は秩序と平安を誇れる国のひとつと言ってよいでしょう。しかし、不思議です。そこに生きている私たちは何となく不安なのです。心の奥深いところでは、いつも何かを恐れているのです。この不安と焦燥の正体はいったい何なんでしょう。それは何処から来るのでしょう。私たちは、時には先を急がず、じっと立ち止まって考えてみなければならないのではないでしょうか。今回の特別集会がそういうよい機会になればと願っています。◇私たちは、自分でも気づかないでいる事が多いのです。原因がはっきり分かっていれば、それなりに取り組むことも出来るでしょう。しかし、それが分からないから、社会や時代の所為にしたり、他人の所為にしているのです。事態は何の解決にも向かいません。<たましいの安らぎ>は、私自身の課題なのです。<たましい>は、私自身の<たましい>なのです。◇はっきり言って、この奥深く重大な課題に鮮やかな光を投げかけてくれるのは、イエス・キリストしかおられません。冒頭の聖句はキリストご自身が語られた御ことばです。イエス・キリストが嘘つきでないなら、この御ことば通りのことが今も変わらず行なわれている筈です。キリストの救いは、決して特定の時代や民族に限定されたものではないからです。この特別集会においてそれを得ていただけたら幸いです。祝福がありますように。
第1集会メッセージ音声
第2集会メッセージ音声

《信仰による恵みを受ける》

2014-10-19

 

でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、そのとおりにすると・・・(ルカ5:5,6)

 

信仰によって受ける恵みは、単に知識としての理解にとどまらず、自分の実体験となって分かってくるものです。これを臨床的理解と呼んでもよいでしょう。◇ここでのペテロに注目してください。彼はすでにイエスを信じてはいたのです(ヨハネ1:42)。けれどもその理解はまだ浅薄なものであったと思われます。しかしここでは、「打ちのめされるような理解」をさせられているのです。それは、イエスがまことの神であられることと自分が本当に<罪深い人間>であることとを同時に知ったのです(8)。◇少しその経緯を辿ってみましょう。彼の言葉によれば、夜通し働いたにもかかわらず何一つとれなかったようです。だから彼と仲間は、網を洗ってもう帰ろうとしていたのです。そんな時、主イエスは舟を出すように言われ、群集に舟の上から教えられました。話が終わったのでもう帰れるかと思いきや、主はさらに「深みに漕ぎ出して、魚をとりなさい。」と言われたのです(4)。ペテロが初めは否定的だったのには共感します。何もとれないことが実証されていたからです。もしペテロがこのまま否定的な態度を押し通してしまったら、この後のことは何も起こらなかったでしょう。しかし彼は「でもおことばどおり・・・」と従ったのです。主は驚くべき御わざを行われました(6)。それを見たペテロは、恐怖に打たれたのです。◇さらに続けて覚えたいことは、この臨床的理解が彼の献身に繋がっていることです(10,11)。人は神に会い、己の罪深さを知ると、献身しないではいられません。もう魚をとっている場合ではないのです。彼らは<何もかも捨てて、イエスに従った。>とあります。ここから大使徒ペテロの歩みが始まったのです。
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《宣教の原点》

2014-10-12

 

彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤに会った」と言った。彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。  (ヨハネ1:41-42)

 

このみことばは、子どもたちに良く語られるみことばです。実は、ここにキリスト教が拡大した理由、宣教の原点があるのです。◇最初バプテスマのヨハネの弟子であったアンデレは、師のことばに従いイエスに会いに行きました。彼はそこでイエスと語り合い、イエスをメシア(救い主)と信じました。こうして信仰を持ったアンデレは、その喜びを隠さずに主の働きをしました。彼は大きく分けて二つの働きをしています。◇第一に、彼は自分の愛する者を探し出して喜びの知らせを伝えました(41)。彼は自分の一番愛する者に会えたら伝えようとしたのではありません。会えなかったら別の場所を探して、また会えなかったら探して、見つけ出して、救い主に出会った喜びを証しました。私たちの頂いた救いはこのような喜びの知らせなのです(Ⅱコリ5:17)。第二に、彼は自分の愛する者を主イエスのもとに連れて行きました(42)。彼は証しただけでなく、実際に連れて行ったのです。「行けたら行きましょう」と誘ったのではなく、連れて行ったのです。この働きによって、シモン(後のペテロ)は神から離れた人生から向きを変えて、主を信じる人生に導かれたのです。彼は愛する者が悔い改める為の手助けをしたのです。◇これ以上に素晴しい主の働きがあるでしょうか?彼の働きで、後の献身者が救われたのです。これが初代教会から受け継がれてきた宣教の原点なのです。私たちも愛する者にキリストを証して、主のもとに連れて来ましょう。
(文:実成)
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《人生最大の課題》

2014-10-05

 

  すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず・・・  (ローマ3:23)

 

人生の諸々の課題の中で最も重大で深刻な課題は何でしょう。先ずこの点を考えることから始めねばなりません。と言うのは、この点での認識と自覚が、ほとんどの人がずれているからです。◇初めに神は、人をご自身の<かたち>に似せて創造されました(創世記1:26,27・31)。しかし今、それがどれだけ残っているでしょうか。他人事としてではなく、今の自分の姿と見比べてください。きよさの点ではどうでしょう。神がきよいように、きよい心できよい生活を送っているでしょうか。正しさの点ではどうでしょう。隣人を愛することにおいてはどうでしょう。ゼロにはなっていないでしょうが、今の私たちは、神のかたちとは似ても似つかぬ姿に堕してしまっているのです。◇聖書はこれを、すべての人は罪を犯したので神からの栄誉を受けられなくなっている、と伝えています。旧約聖書にも同じ趣旨の言及があります(イザヤ書59:1~8)。罪とは神との断絶であり、神からの栄誉も祝福も受けられなくなっている状態なのです。私たちは、<神のかたち>を失うことによって、神との交わりも失ってしまったのです。そしてその結果、様々の反道徳的な罪を重ねているのです。◇しかし、幸いなことに、愛の神はこういう私たちを御子イエス・キリストによって取り戻してくださったのです(ローマ3:24)。それが十字架の贖いです。注目して欲しいのは<価なしに>ということばです。これは「与える」ということばに由来します。即ち、罪からの救いは自らの力で達成できるものではなく、神からの一方的な賜物として「与えられる」ものだということです。だから<神の恵み>なのです。私たちは、ただ受け入れるだけでよいのです。また、それしか出来ないのです。
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