浦和聖書バプテスト教会

12月, 2014年

《神の恵みを数えつつ》

2014-12-28

 

わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103:2)

 

今年も終わろうとしています。主の恵みを想い起しつつ過ごせたら何と幸いなことでしょう。◇<主の良くしてくださったこと>とは何でしょう。少し気をつけねばならないことがあります。それは、自分にとってよいことが恵みであり、悪いことは恵みではない判断してしまうことです。これは善悪二言論です。このような見方をしている人は結構多いのではないでしょうか。神の恵みを、結局は自分の尺度で善いことと悪いこととに色分けしているのです。生き方の基本にこのような考え方を置いている人は、どうしても安定した生活がむずかしくなってしまうでしょう。◇主に在る愛兄姉にはすでにお分かりと思いますが、私たちが主の恵みを知ることが出来るのは、多くは苦しみを経験しているときなのです。たいていの人が、人生が順調に進み何の問題もないときは神の恵みに気づかずに過ごしてしまいます。当たり前と思っていることの中に、数え切れない恵みが見過ごしにされていると言ってよいでしょう。身近な例をひとつ挙げれば、病を負わされてみて初めて健康という恵みに気づくといった具合です。ひょっとしたら、私たちの人生に苦しみがあるのは、神の恵みに気づくためなのかも知れません。◇このような視点を据えると、私たちの人生は<主の良くしてくださったこと>で満ちているのではないでしょうか。少なくとも断言できることは、主が悪くされたことはひとつもないのです。キリストに在る人生は「よいことずくめ」なのです。特に、十字架の恵みは普遍です(8~14)。主は、もはや、私たちの罪にしたがって私たちを扱うことはなさらないのです。悔い改めという特権は、時を越えて、私たちを御赦しの中に生かしてくれるのです。アーメン、ハレルヤです。
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《クリスマスに寄せて》

2014-12-21

 

わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」。 (マタイ9:13)

 

クリスマスは、この日本の社会でもすっかり定着し、もはや年末の風物詩となっています。最近では、クリスマスのお祝いをする家庭も増えているようです。しかし、その意味となると、ほとんどの人が知っていません。日本人のクリスマスは形だけまねた「猿真似クリスマス」なのです。神の御子は何のためにこの地上に来られたのでしょう。◇主ご自身が「正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来た」と言われます。これは、私たちの常識的な考えに反します。一般的には、正しい人が天の御国に入れると考えられているからです。なぜ「罪人」なのでしょう。言うまでもなく、罪人こそ救いを必要としているからです。御子キリストは、罪に苦しむ人々を救うために来られたのです。そして、その生涯の最期に、十字架で身代わりとなって罪のさばきを受けてくださったのです。私たちは、罪人だから救われるのです。◇しかし、もう少し考えを進めねばなりません。はたして、自分の正しさを根拠にして御国に入れる人がいるでしょうか。これは理屈ではなく、人間の現実です。聖書はこの点も明言します。<すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず・・・>(ローマ3:23)と。この社会で正しいとされる人でも、神の前ではひとりの罪人にすぎないのです。言い換えれば、自分の正しさを根拠にして神に救いを要求できる人はひとりもいないということです。◇むしろ、正しいとされている人こそ、本当は天の救いが必要なのではないでしょうか。罪に苦しみ、救いを必要と感じている人は幸いです。反対に、ここに出てくるパリサイ人のように、自分は正しいと思っている人は、救いを求める必要を感じないが故に不幸なのです。
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《神を恐れて生きる》

2014-12-14

 

  それでも、あなたがたは、わたしのもとに帰って来なかった。 (アモス書4章)

 

この聖句は、この章の中で五回も繰り返されて出てきます。どういうことなのでしょう。◇先ず何が起こったのかを見ておきましょう。第一が食料不足です(6)。第二は水不足(7,8)、第三は農作物被害(9)、第四は疫病と戦争による多くの死者(10)、第五が大地震(11)です。覚えなければならないことは、これらすべての災いが、人々を神に立ち返らせるために神が仕組んだ出来事であったということです。「わたしに立ち返れ」という神の大きな呼びかけと捉えてよいでしょう。私たちは、今もこのような呼びかけがなされていることを知っているでしょうか。◇神に背く人々の姿は、今も昔もそう変わっていません。神の呼びかけを聞こうともしないのです。特に神を認めない現代人は、自然災害にしろ人為的な災害にしろ、そこに神からのメッセージがあろうなどとは考えもしません。我々日本人はせいぜい「罰(ばち)が当たった」と思うくらいです。だから同じようなことが五回も繰り返されてしまうのです。神の呼びかけを聞かないなら、このようなことは永続的に繰り返されていくでしょう。私たちは、たった一度の災いで「それで、あなたがたは、わたしのもとに帰ってきた。」にしなければならないのです。◇v12のみことばは重大です。主なる神は「あなたに起こる<このこと>」が何であるかを明らかにしていません。同じようなことが何か起こるのです。重要なことは、そこで主なる神に出会うこと、神に立ち返ることです。それをしなければ、<このこと>はずうっと続いて行くでしょう。大げさでなく、今人間の歴史はこういう愚かな繰り返しの中にあるのです。<滅びに至る門は大きく、その道は広い>のです。<そして、そこから入って行く者が多いのです。>(マタイ7:13)
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《敗北を生き抜く》

2014-12-07

 

私たちの救いの神よ。御名の栄光のために、私たちを助けてください。 (詩篇79:9)

 

敗北というと、多くの場合は人生の終わりを意味します。長い人生、一度や二度、そんな経験をさせられることもあるでしょう。◇この詩篇の時代背景を特定することは出来ませんが、この時聖都エルサレムは壊滅状態にあったことが分かります。諸外国の侵入によってです(1)。その有様は、目を覆うような悲惨なものでした(2,3)。そして、聖徒たちの面目はつぶれ(4)、神の御名も著しく貶められていたのです(10)。敗北という言葉がこれ以上よく当てはまる状況はないでしょう。私たちは、こういう状況の中に自分の身を置いて考えねばなりません。どう生き抜いていったらよいのでしょう。◇まず彼らは、これが神の怒りによって引き起こされていると理解していました(5)。これこそ、起こった事態を信仰によって受けとめる正しい姿勢です。彼らは、その理由を自分たちの力不足や敵の所為だけで済ませていません。全能の神が、彼らの背信を<ねたみ><怒り>を発しておられるのです。神の聖徒たちが神の怒りを受ける理由はこれしかないことを、改めて覚えねばなりません。この作者は<先祖たちの咎>さえも考慮に入れているのです(8)。悔い改めはここから始められるのです。◇さらに注目したいことは、彼らは単に自分たちが救われることだけを求めてはいません(9)。<私たちの罪をお赦しください。>と祈っています。背信の罪の悔い改めです。加えて<御名の栄光のために><御名のために>と祈り求めています。悔い改めでさえも自分のためではなく、主の御栄えのためなのです。人は、苦しい時ほど自己中心になりやすいものです。しかし、敗北を帰した時こそ、神中心の生き方を取り戻さねばならないのです。神の聖徒たちは、このようにして、敗北を生き抜いてゆくのです。
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