浦和聖書バプテスト教会

1月, 2015年

《苦しみを通して生まれ変わる》

2015-01-25

 

  苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。(詩篇119:71)

 

苦しみを喜べる人はひとりもいないでしょう。しかし、苦しみは人を新しく生まれ変わらせることもあるのです。◇先ず、苦しみに会う前の自分を思い起こしてみましょう。<苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。>(67a)とあります。これは、すべての人に共通している姿ではないでしょうか。私たちも、かつては自分を誇り、神に背を向けて「いい気になって」生きていたのです。使徒パウロも、こういうかつての姿を詳しく語っています(エペソ2:1~3)。<この世の流れに従い><肉と心の望むままを行う>生き方こそ、とんでもない<あやまち>なのです。◇しかし、苦しむことによって、その過ちに気づいたのです。ここに新しく生まれるための分岐点があります。多くの人がこの<あやまち>に気づかず(あるいは認めず)、そのまま滅びの道を突っ走って行きますが、私たちは<私はそれであなたのおきてを学びました。>となったのです。ここに、神の救いの御わざがあります。苦しみを通して、神に従う道に立つことができたのです。<しかし今は、あなたのことばを守ります。>と告白できるのです。苦しみが神を知る機会、神に従う人生への出発となるのです。◇過去を振り返って<苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。>といえる人はなんと素晴しいことでしょうか。イザヤ書には<彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。>(53:11)という聖句がありますが、これが主イエスの十字架の苦しみを指していることを忘れてはなりません。主イエスは苦しみによって人の救いを為し遂げられ、人は苦しみによって神の救いを知るのです。<私はあなたの戒めを決して忘れません。それによって、あなたは私を生かしてくださったからです。>(93)
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《よい結果がすべて?》

2015-01-18

 

それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある。」(イザヤ49:4)

 

私たちは日頃、よい結果を得るために行動しています。しかし、すべてがよい結果で終わる訳ではありません。それを失敗と片付けてしまってよいのでしょうか。イザヤが自分とイスラエルを重ねて語っているこの一連の聖句には、よい結果よりも大切なものがあることを教えてくれているのではないでしょうか。◇先ずクリスチャンとして、自分の原点を確認しておかねばなりません(1~3)。私たちは主の栄光を現わすために召し出されているのです。しかもイザヤは、この神の召しは<生まれる前から><母の胎内にいる時から>なされていたと告げています。自分が今クリスチャンであることをこのような原点から捉えた上で、地上の人生を考えていかねばならないのです。◇イザヤの苦しみは、にもかかわらずよい結果を得られなかったところにあります(4a)。即ち、自分のしたことが神の栄光を現したようには思えなかったのです。「私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。>と告白しています。私たちの人生も、時にはこのような厳しい現実に直面しなければなりません。特に何か神の働きを担った時にです。◇しかし、それはむだだったのでしょうか。むなしいことだったのでしょうか。否です!イザヤは続けて告白しています。<それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は私の神とともにある。」>と。私たちに対する主の評価は、決して結果主義、功利的ではないのです。求められているのは、いかに忠実に主に仕えたか、なのです(マタイ25:21)。使徒パウロのことばを想い起します。<私は・・・空を打つような拳闘もしてはいません。>(Ⅰコリント9:26)。報いは神とともにあるのです。天においては覚えられているのです。
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《栄光を与えるために》

2015-01-11

 

見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。(イザヤ48:10)

 

<悩みの炉>とは、文脈から見て「バビロン捕囚BC586~」という歴史的、国家的な試みを指していることが分かります(20)。◇これは、ユダヤの人々にとって、この上もない悪いことです。国が滅ぼされ、神を信じている者も信じてない者も一緒くたに捕囚とされてしまうのですから。しかし、ここにも、神の善なる計画があったのです。これは人の目には見えないことですが、愛の神であられる主が、ご自分の民に「悪いこと」をなさる筈はないのです。神の意図されていたことは、ご自分の民をその栄光にふさわしく練りきよめるためだったのです。銀は火できよめられ、人は悩みできよめられるのです。◇もし汚れたままで神の栄光を受けるなら、私たちはその栄光で神の名を汚してしまうでしょう。人は喜ぶかも知れませんが、神の名は失墜してしまいます。<どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。>と主は問われます。栄光を受けるためには、それにふさわしい者に造り変えられる必要があるのです。<悩みの炉>ですから、それは人には苦しいことですが、その苦しみの中にはこのような神の善なる計画があることを決して忘れてはなりません。<わたしはわたしの栄光を他の者には与えない。>と主は言われるのです。◇では、練りきよめられるとはどういうことなのでしょうか。私たちは、きよさということを感覚的に捉えようとする傾向がありますが、最も大切な観点は、主のみ教えに喜びをもって従えるようになることなのです(17~19)。主の命令に耳を傾けさえすれば<しあわせは川のように><正義は海の波のように>おし寄せてくる、と主は言われます。こうなると、主の栄光と私のしあわせとの間に、一分の隙間もなくなるのです。これがきよいということです。
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《主を待ち望む》

2015-01-04

 

それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。(イザヤ30:18)

 

この章は<ああ、反逆の子ら。―主の御告げ>で始まります。◇先ず、彼らの反逆がどのようなものかを、歴史的状況を踏まえて理解しておかねばなりません。北方からどう猛きわまりないアッシリヤ帝国が攻め込んで来ていたのです。すでに同胞イスラエル(北王国)は滅ぼされていたのかもしれません(BC722年)。この危機的状況を乗り切るために、彼ら(南王国ユダ)は、南方のエジプトに助けを求めたのです。これが主に対する反逆だったのです(1,2)。神の民が神に拠り頼まないことは背信の罪なのです。言うまでもなく、勝利はありません(7)。<私の助けは、天地を造られた主から来る。>(詩篇121:2)からです。◇神の民にとって、神を信頼することほど大切なことはありません(15)。救いも力も主から来るのです。<立ち返って静かにする>とは、何もしないことではありません。<落ち着いて、信頼する>ことなのです。現実には、これがなかなかむずかしいようです。<しかし、あなたがたはこれを望まなかった。>とあります。他の人の力に頼ったり、逃げようとしたり・・・今も昔も、人の姿はそう変わっていないのかも知れません。常に求められているのは、いかに主を信頼するかなのです。◇年頭に当たって、改めて、私たちの信じている主がどんなお方か覚えたいものです(18)。主は、私たちを恵もうと待っておられるのです。主の御もとには、あらかじめ祝福が用意されているのです。私たちは、これを受け損なうようなことは絶対にしてはなりません。私たちにとって幸いなことは、主を待ち望めることです。結果は必ず現われてきます。この一年が、恵みに満ちた年となりますように。
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《元旦礼拝》

2015-01-01

〜詩篇 1〜

 

1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。

2 まことに、その人はのおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。

3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

4 悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。

5 それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。

6 まことに、は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。

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