浦和聖書バプテスト教会

2月, 2015年

《最も安心できる生き方》

2015-02-15

 

あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。(詩篇55:22)

 

危険きわまりない世の中です。自分の生活を自分で守ることすらむずかしくなっています。心やすらかな生き方は、もう出来ないのでしょうか。否です!◇先ず第一に、全知全能の主が、私たちのことを心配してくださっていることを知らねばなりません。多くの人がこのことに気づかずに生活していますが、改めて、自分が何故この世に存在しているのかを考えねばなりません。自分で選んで生まれてきた人はひとりもいません。いのちは神のもの、人生もまた神のものなのです(詩2:7)。ならば、私たちを産んでくださった方が、私たちのことを忘れることがあるでしょうか(イザヤ49:15,16)。変わらない愛をもって、私たちのことを心配してくださっているのです。◇ですから私たちは、自分の人生を神であられる主にゆだねなければなりません。<あなたの重荷を主にゆだねよ。>です。主が心配してくださっているのですから、主にお任せするのは当たり前ではないでしょうか。全能の主にすべてをお任せできるから、心は安らかさを保つことが出来るのです。主イエスは<医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。マタイ9:12>と言われました。これは病だけではありません。人生の様々な問題や課題を自分だけで解決しようとするから、心は動揺し平安を失ってしまうのです。◇さらに大切なことは、追い詰められても罪を犯さないことです。<主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。>とあります。追い詰められて苦しみが増すと、人は背信の罪を犯してしまいます。大きな失敗の陰には、常に罪があると言ってよいでしょう。言うまでもなく、罪を犯した心に平安があるはずがありません。苦しくとも、正しく神に従うから、心は揺るがず、安らかなのです。
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《生き方が問題か》

2015-02-08

 

ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。・・・   (マタイ25:26)

 

「なまけ者」と言うと、私たちは普通、何もしないでただぶらぶら遊んでいるだけの人というイメージを持っています。ところが、ここに出てくるなまけ者はまったく違います。◇彼は主人から預かった1タラントを失わないために、知恵を尽くし、努力を重ねているのです。まず誰にも見つけられないようにしなければなりません。盗まれないためにです。隠したら、今度はそれが保たれていることを誰にも知られないようにして確認していなければなりません。主人が帰って来るまで、それを繰り返していかなければならないのです。こんな風に想像すると、彼の生き方は決して楽ではなかったのです。それなりに気を遣い、努力を重ねなければならなかったのです。◇なのに何故、彼は「悪いなまけ者のしもべだ。」と主人から叱責されねばならなかったのでしょう。理由は明らかです。失敗を恐れてタラントを活用しなかったからです。彼は、保つため、失わないための努力はしましたが、それを活用するための努力はしなかったのです。目の付け所、力の入れ所が、主人の意とはまったく違っていたのです。知恵を尽くし、努力を重ねているのに、的外れな労苦だったのです。◇私たちは一般的に、真面目に一生懸命生きればそれでよい、と教えられていますが、このような意味での「なまけ者」もあるのです。主人の意を無視した労苦は、結局はむなしいと言ってもよいでしょう。彼に対する処罰は大変厳しいものでした(30)。主イエスが<役に立たぬしもべ>と語っておられるのには注意しなければなりません。私たちには、与えられたタラントを活かす生き方が求められているのです。タラントを活用しなければ失敗はないかもしれません。が同時に、発展も進歩も、主人からの報いもないのです。
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《主にあって何を喜ぶか》

2015-02-01

 

  いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。 (ピリピ4:4)

 

漠として喜んでいる人はいません。一般的に人は、自分にとって何か価値あるものを手に入ると喜ぶことが出来るのです。ここに、その人の持っている価値観が喜びと深く関わっていることが分かります。◇では、パウロは何を喜べと言っているのでしょう。<主にあって>ということばの中に、ある人は、それは救われていることであると考えますが、そうではないようです。救いは大前提となっています。救われている者にはその先があるという事でしょうか。この書簡でパウロが最初から最後まで一貫して訴えている喜びは、すでにこの手紙の初めに鮮やかに示されています(1:12~18)。これです!◇パウロは伝道者ですから、福音が広められることを喜ぶのは当たり前だと思われるかもしれませんが、この当たり前のことがずれてしまったり、異なったものになってしまうところに私たちの問題があるのです。例えば、パウロが物欲を満たすことに喜びを見出していたらどうでしょう。伝道者が福音宣教以上(以外ではなく)の喜びを他のことに求めていたら、はっきり言ってそれは大きな罪です。この観点でパウロの語っていることを見直すと、やはりパウロはすごい!と感嘆せざるを得ません(1:19~21)。◇翻って私たちはどうでしょう。私たちも<主にある>者たちです。何もかもパウロと同じにならなければいけないということではありませんが、クリスチャンとしての自分の喜びが何処にあるのかを改めて考え直してみる必要はあるのではないでしょうか。それぞれの生活の場で、何に価値を見い出し、何を求めているのでしょう。それが<主にあって>と言えることなら素直に喜んでよいでしょう。しかし、そうでないなら、自分の生き方を軌道修正する必要があるでしょう。
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