浦和聖書バプテスト教会

4月, 2015年

《神の計画と人の理解》

2015-04-26

 

しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。(イザヤ53:5)

 

この有名な預言には、一つ注目すべき点があります。それは、神が計画された救いがどのようになされるか、また、それに対して人がどんな理解をするかです。◇先ず、救い主(キリスト)の到来に関してですが(v1~3)、<彼は・・・若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。>と言われています(参イザヤ11:1)。主イエスの誕生とその生涯を物語っています。これに対して人間は何の注目もせず(2b)、かえって<顔をそむけるほど>彼を<さげすんだ>のです。神の民でさえ<彼を尊ばなかった。>のです。これは、今も変わらない人の姿と言ってよいでしょう。◇次に、救いの御わざに関してですが(4~6)、これこそまさに主イエスの十字架の死を預言しています。主は<私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。>のです。<私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。>のです。これに対して人はどう理解したでしょう。<だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。> とんでもない誤解です。私たちの身代わりになって罰を受けられたのに、それをまったく主イエスの所為、責任にしているのです。次のv7~9でも同じような人の姿を見ます。◇これはもう「くい違い」と言った程度のものではありません。まったくの誤解です。と言うよりも、神の計画をまったく無視し、自分の勝手な理解を何の吟味もなく押し付けているだけです。今も変わらぬ人の姿ではないでしょうか。私たちは改めて、福音のことばに耳を傾けねばなりません(ヨハネ1:9~13)。神の救いは、それをどう理解するかではなく、それに応じる者、それを受け入れ信じる者に成就するのです。救いを実感できたから「救われた」と言えるのです。
音声はこちら

《価値ある苦しみ》

2015-04-19

 

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。 (イザヤ53:4)

 

人生は多くの苦しみが伴うものですが、価値ある苦しみを負っている人はそう多くはないのかも知れません。◇先ず、なくてよい苦しみ、価値のない苦しみについて少し考えておきましょう。言うまでもなく、それは自分の罪に起因している苦しみです。人は自分の蒔いたものは自分で刈り取ることになります(ガラテヤ6:7,8)。しかし、この苦しみにも意味はあります。主なる神は、苦しみを刈り取らせることによってその罪を示し、悔い改めを求めておられるのです。意味のない苦しみは何もないのです。◇では、価値ある苦しみとはどんな苦しみなのでしょう。私たちは、それを主イエスの十字架に見ることができます。主は<私たちの病を負い、私たちの痛みをになわれた>のです。ここには二つの面があって、それを見逃してはなりません。一つは、主イエスは私たちを愛し救うために、私たちの身代わりとなって十字架の苦しみをになわれた、という点です。も一つは、そうすることによって、完璧に父なる神の御旨を為し遂げられたという点です。これは十字架そのものの価値を示しています。主はかつて「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16:24)と語られました。十字架は単なる苦しみではないのです。◇苦しみはなるべく避けて通りたいものですが、このような苦しみは自発的、積極的に負うべきではないでしょうか。クリスチャンが楽な人生ばかりを追い求めていたら、それはさびしいことです。<すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。>(Ⅰコリント6:12)。主イエスと同じ十字架を担おうとするから、そこに価値ある苦しみがあるのです。

※音声なし

《 祝イースター 》

2015-04-05

 

「悪い姦淫の時代は、しるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」 (マタイ11:39)

 

言うまでもなく、主イエスの復活は、神のなさった比類のない奇跡です。◇主が言われた<ヨナのしるし>とは、よく知られた旧約聖書の物語です。ヨナは故あって大魚に呑み込まれ、三日間大魚の腹の中におり、再び地上に戻されたのです。主はやがて起こるご自分の復活を、この預言者の物語になぞらえて予告されたのです。公生涯において、すでに、ご自分の十字架の死と復活を知っておられたとは驚きです。主は、初めからメシアとしての使命を見据えて生きておられたのです。◇それにしても、このしるしのほかにしるしは与えられないとは、どういう意味なのでしょう。水をぶどう酒に変えることから始まって、5つのパンと2匹の魚で5千人以上の人を養うとか、ガリラヤ湖上を歩いて渡るとか、主イエスが神であられるしるしは満ちているではありませんか。しかし主は、それらのしるしは復活に比べたら取るに足りない、なきに等しいと言っておられるのです。空腹が満たされても、嵐の海から救われても、それは永遠のいのちへの救いではないからです。◇しかし、復活は違います。罪と、その結果である死に対する完全な勝利なのです。Ⅰコリント15:54~58。まさに「死は勝利にのまれた」のです。ですから私たちは、主イエスの復活に、比類のない、最高の祝福を覚えなければなりません。パンの祝福やいやしの祝福に与っても、もし復活の祝福を逃していたら、それは本末転倒の人生だと言わねばなりません。キリストに在るならば、たとえからだは罪の故に死んでも、魂はキリストの義によって永遠のいのちに入るのです。主イエスの復活こそ、真のしるし、救いのしるしなのです。アーメン。


最近のメッセージ

年月別メッセージ

アクセスカウンター

  • 今日:172   昨日:125
  • Total:183784   Online User: 0