浦和聖書バプテスト教会

5月, 2015年

《人の計画と神のはかりごと》

2015-05-31

 

人の心には多くの計画がある。しかし、主のはかりごとだけが成る。 (箴言19:21)

 

一番好ましいのは<主のはかりごと>と自分の計画が一致している生き方です。しかし、そんな人生を歩んでいる人はひとりもいないでしょう(ローマ3:9~12)。◇ほとんどの人が自分の計画だけで生きようとしています。神を認めない人は言うまでもなく、神の存在を認めている人でも、自分の人生となると、やはり自分の計画を優先しています。<人の心には多くの計画がある。>です。しかし聖書は、こういう生き方を「神に背く罪」と指摘しているのです。世の法に照らしても、倫理的基準から見ても正しいと考えられる生き方ですらそうです。人の目には正しくとも、<主のはかりごと>からずれてしまっているところに、人生最大の問題があるのです。<主のはかりごとだけが成る>のですから。◇また、こんなことも考えられます。明らかに主のみこころと分かっていても、自分の欲望の故に、自分の計画を押し通してしまう生き方です。もち論これは、さらに責任の重い背信の罪です。知らないで犯した罪ではなく、知っているのに犯した罪だからです(ヨハネ9:41)。クリスチャンが気をつけねばならないのはこの罪です。神を信じていても、神に従っているとは限りません。信じているならば従わねばならないのです。◇主のみこころに従っていないのに<主のはかりごとだけが成る>から、人生おかしなことになってしまうのです。道に迷ったら、一番確実なのは出発点に戻ることです。思い通りにならない時こそ、主がご自分の<はかりごと>を示しておられる時なのです。愛と救いの神が、私たちが滅びに向かうのを放って置かれるわけがありません。挫折や失敗には、主なる神から、愛と救いのメッセージが語りかけられているのです。心の耳を澄ましましょう。
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《オープンチャーチ》

2015-05-24

オープン・チャーチのご案内

 

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誰もがみんな「自分らしく生きたい」と願っています。しかし、願いどおりにならないのも現実です。
だからみんな悩み苦しむのです。長い人生、時にはどうしてよいか分からない問題を抱える
ことも あります。そんな時どこに解決を求めたらよいのでしょうか?
聖書はみずから語ります。

『聖書は、あなたに知恵を与えて、 キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせる
ことができるのです。』(IIテモテ3・15)

聖書が与える知恵とはなんでしょう?
信仰による救いとは何でしょう?
今回のオープン・チャーチでは、それを分かりやすく語っていただきます。ぜひ教会へ足を>運んでください。お待ちしております。

■テーマ

マイ・ライフ – 答えは聖書に-

■講師

奥村 明郎(佐倉聖書バプテスト教会牧師)

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《奴隷になれる自由》

2015-05-17

 

私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。  (Ⅰコリント9:19)

 

誰かの奴隷になることを選ぶ人はいないでしょう。しかし、パウロは、敢えてそれをすると語っているのです。◇変な言い方になりますが、<だれに対しても自由>だからこそ、その自由を捨て、奴隷(しもべ)になることが出来るのです。私たちはここに、キリストに在る者の真の自由を見なければなりません。自由を捨てて奴隷になれる自由です。<キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って・・・>(ガラテヤ5:1)。これが罪の支配から解放された者の姿なのです。◇では、なぜ敢えて奴隷になろうとするのでしょうか。<より多くの人を獲得するため>、また<何とかして、幾人かでも救うため>とパウロは言います。ここでは神の栄光を現わすことが、ひとつの具体的な形で示されています。愛する人を救いに導くためには、この姿勢がなくてはならないのではないでしょうか。キリストの福音は、上から権威的に伝えられるものではありません。キリストご自身が私たちのしもべになられたように、私たちもしもべとならねばならないのです。◇しかし、最後に注意しなければならないことがあります。パウロは<・・・ようになる>と言っています。決して<・・・になる>ではないのです。このふたつの間には、絶対に越えてはならない一線が引かれているのです。救われた者は、救われてない人になることは出来ません。なれたら、その人は救われてない人です。<・・・ようになる>とは、限りなくその人に近づき、受け入れることを意味しています。<私はすべてのことを、福音のためにしています。>(23)
こういうキリストに在る自由人でありたいものです。
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《人間と自由》

2015-05-10

すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべて
のことが有益とはかぎりません。・・・すべてのこと
が徳を高めるとはかぎりません。(Ⅰコリント10:23)

 人間は本能のまま動かされる動物とはちがいます。また、誰かに操縦されたまま動くロボットでもありません。自分で考え、自分で判断し、自分で決断して生きてゆく存在です。◇このような自由は、人間だけに与えられている神の賜物と言わねばなりません。人間は<神のかたち>に創造されているのです(創世記1:27)。パウロも<すべてのことは、してもよい>と語ります。<しかし、すべてのことが有益とはかぎらない>と指摘します。要するにこの自由という賜物を<有益なこと><他の人の徳を高めること>に活かしなさいと言うのです。これが、人間としての在るべき姿ではないでしょうか。◇自由というと、それを社会的、政治的な観点だけで捉えがちですが、聖書が示すこのような自由こそ、人間が人間であるための基本的自由であり、心の健全で真実な自由と言えるのではないでしょうか。最近、この自由が損なわれる傾向が強いと感じます。人が動物やロボットに成り下がってしまったのです。大げさでなく、この自由を失うことは、人間を辞めることを意味します。言うまでもなく、それは創造者なる神に対する背信の罪なのです。◇パウロは言います。<こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。>(31)。きわめて日常的な飲み食いですら、神の栄光を現わすために為すことが出来るのです。私たちクリスチャンは、この自由を、人間だけに与えられた神の特別な賜物と覚えなければなりません。私たちは、神の栄光を現わすために、よく考え、判断し、行動を起こすのです。それ以外の生き方は、私たちにはふさわしくないのです。

《知るよりも知られること》

2015-05-03

しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。 (Ⅰコリント8:3)

 きわめて具体的、個別的な問題を論じるに当たって、パウロは、一見その問題とは何の関わりもないような御ことばを語ります。◇私たちは先ず、これがパウロの問題解決の仕方であることを覚えねばなりません。彼は常に、物事を普遍的原理から捉えているのです。もし彼が、ここで正しい知識に基づいて「よい、悪い」どちらかの解答を出したら、教会内にどれほどの困惑をもたらしたでしょう。正しい知識でも、時には、主に在る交わりを阻害してしまうのです(1)。私たちは、正しい知識の発動には、それを支えるに充分な愛があるかどうかを確認しなければなりません。◇知るということの主体は、あくまで私です。対して、知られることは、私は受身であって、主体は神にあるのです。信仰生活においてどちらが大切かは言うまでもありません。もし自分の知っていることだけで信仰生活を進めていくなら(そういう人が多い)、信仰生活は時を経ずして道に迷い、独善に陥ることでしょう。信仰とは、主体を自分に置くのではなくて、自分の運命を絶対他者である神に委ねることなのです。自分に主体を置くことは、かえって信仰生活の妨げになると言ってよいでしょう(マタイ16:24)。◇では最後に、神に知っていただくためには何が必要なのでしょうか。パウロはずばり<人が神を愛するなら>と付言します。神を知ろうとすることよりも、神を愛そうとすることです。知的に神を追求するよりもはるかに、神は私たちの愛を喜んでくださいます。<神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。ローマ8:28> 神を愛する者、その人が神に知られているのです。ハレルヤ


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