浦和聖書バプテスト教会

6月, 2015年

《人生最大の失敗と成功》

2015-06-28

 

この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから』(ルカ15:24)

 

有名な主イエスのたとえ話です。きょうはこの放蕩息子を『人生で最大の失敗と成功を経験した人物』という視点で見てみたいと思います。◇先ず最大の失敗ですが、私たちはそれを何処に見たらよいでしょう。家を飛び出したことでしょうか。快楽におぼれ、お金を使い果たしてしまったことでしょうか。また運悪く、そんなときに大ききんが襲ったことでしょうか。これらはみな彼の人生をどん底に突き落とした要因には違いないでしょうが、最大の失敗ではありません。最大の失敗は、彼の心の中にあったのです。彼は、父がいなくても自分ひとりで生きていける、と考えたのです。主イエスは、この彼の姿で、神から離れて生きようとしている人の姿を表しているのです。詩95:7。◇従って最高の成功はその反対、父のもとに帰ったことなのです。多くの人がこれが出来ないのです。しようとしないのです。故郷に錦を飾れないとしても、こんな場合には野垂れ死にしたほうがましだ、と考えてしまいます。ある種のプライドです。この息子にこういうプライドがなかったわけではないでしょう。しかし彼は、素直に(低くなって)自分の愚かさと罪を認め、恥も外聞も捨てて父のもとに帰っていったのです(18~20a)。彼の悔い改めのことばには注目しなければなりません(21)。◇こういう彼を父はどのように迎えたでしょう。不思議なのは、息子の罪も失敗もひと言も責めていません。息子が帰ってきたことで充分なのです。むしろ私たちが驚かされるのは、父の喜び様です。離れていても、いなくなっていても、どこかで罪におぼれていても、息子は息子なのです。主イエスはこの父親をして<死んでいたのが生き返り>と語らせています。父のもとに帰ることがすべてなのです。アーメン。
音声はこちら

《あかしを取り戻す》

2015-06-21

 

  私たちの救いの神よ。御名の栄光のために、私たちを助けてください。(詩篇79:9)

 

これは詩というより、痛切な祈りであり、神に向けられた心のうめきです。◇まず彼らがどんな状況に置かれていたかに目を向けましょう(1~3)。戦いに敗れ、エルサレムは廃墟とされ、神の聖徒たちは殺され、彼らの<しかばね>は葬る人もなく、猛禽や野獣がその肉を喰らっていたのです。これがいつの時か特定は出来ませんが、恐らく原爆投下後の広島のような有様だったのでしょう。彼らは、神の民であるのに、そのあかしを全く失っていたのです(4)。神の民が<隣人のそしり><あざけり><笑いぐさ>に成り下がってしまったのです。これは実に屈辱的なことです(10)。◇祈らねばなりません。こんな時だからこそ、救いの神であられる主の介入を求めなければならないのです(9)。こんな時の祈りは、決して安らかな心地よい祈りではありません。胸をかきむしるような祈りになるでしょう。しかしそれでも、ただ単に<私たちを助けてください。>ではないのです。著者は<御名の栄光のために><御名のために>と祈ることを忘れてはいません。自分の救いと一直線でつながって、神の栄光が現されることを(最終目標)求めているのです。◇さらに見失ってならないのは、救いを求める祈りが罪の赦しを求める祈りと一つになっていることです(9b)。彼は、この惨状が神の怒りに触れた結果であると捉えているのです(5)。今日、神の助けを求めるだけで、自分の罪を棚上げしている祈りがいかに多いことでしょうか。改めて、罪の解決のないところには主からの回復もないことを覚えねばなりません。◇この祈りの結果がどうなったかは窺い知ることができません。しかし、これが、神の民があかしを取り戻す祈りであることは誰も否定できないでしょう。
音声はこちら

《悪の惑わしと信仰》

2015-06-14

 

  見よ。悪者とは、このようなものだ。彼らはいつまでも安らかで、富を増している。(詩篇73:12)

 

信仰生活が原則どおり進んでいくなら、誰も戸惑うことはないでしょう。しかし時には、大きく崩れることがあるのです(v1,2)。◇この著者の素晴しいところは、そういう自分を正しく分析できてる点です(v3)。どのような場合でも、心の中に<ねたみ>を抱えていたら、前進することはむずかしいのです。悪者の驕り高ぶった姿は、どの社会にも見られます(v4~12)。しかし覚えなければなりません。それに対し<ねたみ>を覚えたら、自分自身を損なうことになるのです(v2)。これは信仰生活に生じることです。こういう心の状態を放って置いてはならないのです。信仰上の問題こそ、信仰によって解決しなければなりません。◇著者はどのように解決したのでしょう。この点もたいへん教えられます(v13~17)。なぜ悪が栄えているのか。彼は先ず自分の知恵を尽くしてその解答を見出そうとしたようですが、それは<苦役であった>と告白しています(v16)。解決は思わぬ時に与えられました(v17)。礼拝に行った時なのです。<ついに、彼らの最後を悟った>とあります。知恵を尽くして世を見ている時には<苦役>でしかなかったのに、<神の聖所に入り>、主を仰いだ時<悟った>のです。その内容がv18~20です。原則が崩れた苦しみの時を経て、ほぼ同じ原則を悟ったのです。◇さらに素晴しいのは、彼が過去のこの経験を冷静に省みていることです(v21~23)。見えてきたのは自分の愚かさでした。自分がまるで<獣のようだった>と告白しています。そして同時に、そんな時でも彼は主とともにいたことが確認できたのです。主は賢い者だけに臨んでおられるのではない、獣のように愚かな者でも(その時には確認できなくても)主とともにいることは出来るのです。アーメン。
音声はこちら

《すべてを成し遂げてくださる神》

2015-06-07

 

私はいと高き方、神に呼ばわります。私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。(詩篇57:2)

 

この詩篇が、ダビデがすでに「王としての油そそぎ」(Ⅰサムエル16章)を受けてから後の詩篇であることに注目しなければなりません。神の約束はどうなってしまったのでしょう。◇彼の置かれている現実は、それとはまったく裏腹の恐ろしい苦境です。現王サウルのねたみから迫害を受け、殺されようとしていたのです。表題には<サウルからのがれて洞窟にいたときに>と記されています(同22章?)。v1では<滅びが過ぎ去るまで、御翼の陰に身を避けます。>と告白しています。v4では<私は、獅子の中にいます。>とも言っています。神の約束が実現しそうな兆しはまったく見えないのです。どうなっているのでしょう。◇「信じても信じなくてもたいした違いはない」と思える現実に置かれている人は幸いであると言わねばなりません。絶望して死ぬか、信じて生きるか。ダビデにはこの二つの間の中庸などなかったのです。どちらでもよいのなら、彼は<いと高き方、神に呼ばわる>ことはしなかったでしょう。生か死か、彼はぎりぎりのところで<私のために、すべてを成し遂げてくださる神>に呼ばわっているのです。即ち、任職の油そそぎを決して否定せず、そこに立って、主がそれを成し遂げてくださると信じたのです。信じて生き抜いたのです。◇これをひと言で「神の試み」と言うには、あまりにも言葉が軽すぎます。言えることは、自分の置かれている現実を見て、そこに神の約束が実現しそうな何かを確認できるから信じるのではなく、反対に、神の約束を信じ、その信仰を貫き通すから現実が動いてゆくということです。主なる神は、信じるものに答えてくださるのです。ダビデはやがて約束どおり王になります。私たちの主は<私のために、すべてを成し遂げてくださる神>なのです。
音声はこちら


最近のメッセージ

年月別メッセージ

アクセスカウンター

  • 今日:142   昨日:339
  • Total:174637   Online User: 0