浦和聖書バプテスト教会

7月, 2015年

《なぜ信仰なのか》

2015-07-26

 

・・・それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

 

キリスト教信仰は、何となく神の存在を信じるといったような漠然としたものではありません。信じる対象と事柄が明確に示されているのです。◇先ず何を信じるのかを確認しておきましょう。<御子を信じる>と言われています。そしてその御子は、私たちに<与えられた>と聖書は告げるのです。このことが主イエス・キリストの十字架の贖いを指しているのを否定する人はいないでしょう。御子を信じるとは、御子のなしてくださったことをも信じることです。これは当たり前です。そして言うまでもなく、これが最も大切な・・・従って絶対に欠いてはならない信仰の内容、即ち福音です(Ⅰコリント15:Ⅰ~5)。◇なぜ私たちはこれを信じなければならないのでしょう。答えは明確です。神ご自身がこの方法を定められたからです。人は昔からいろんな救いの方法を考え出してきました。自分で自分を救えるのならそれでよいでしょう。しかし、永遠のいのちに到る救いは絶対に造り出すことは出来ません(ヘブル9:27)。救ってくださるお方が唯一ならば、そのお方の定めた方法に従わねばならないのです。◇しかしこの方法は、決して、神の勝って気ままに定めたものではありません。人間の目から見ても、見事な合理性をそなえています。ひとつは旧約時代との関連です。罪の赦しのためには、傷のない小羊がほふられていたのです(ヘブル22:20・同12)。だから主イエスは<世の罪を取り除く神の小羊>と呼ばれたのです(ヨハネ1:29)。また、神の救いはすべての人に(人種を超え、罪人にさえ)公平に提供されなければならないのです(Ⅰテモテ2:4~6)。神の救いは、人と時を超えた普遍性をもっているのです。だから今の私も救われるのです。ハレルヤ。
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《家庭と信仰生活》

2015-07-19

 

「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんな大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」(マルコ5:19)

 

主イエスは何故、この人がついて来るのを許されなかったのでしょう。◇少し経緯を辿るとすぐその理由が分かります。この地は<ゲラサ人の地>であり、そこに住んでいる人々はまったく主なる神を知らなかったのです(1)。もし彼がイエスの一行に加わりこの地を去ってしまったら、主イエスの救いを宣べ伝える者がひとりもいなくなってしまいます。そうしたら、主がわざわざ湖を渡ってこの地に来た意味が消滅してしまうのです。だから主は、イエスのあかし人として彼をこの地にとどまらせ、このような命を与えたのです。◇彼は救いを受けたばかりで弟子訓練を受けたわけでもなく、聖書の教理を学んだわけでもありません。しかし確かなことは、主イエスが自分の身になしてくださったことです。これなら、言葉だけでなく、身をもってあかしできます。<イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを>です。あかしとは本来これを語ることなのです。言葉だけ、知識だけのあかしは、むしろ説得力に乏しいものです。Ⅰテサロニケ1:5 まず自分の家族からです。◇興味深いことは、主イエスは<あなたの家族のところに帰り>と言われたのに、彼は<町中に>(ルカ8:9)、さらに<デカポリス地方>(20)まで言い広めたのです。これを命令違反と考える人はひとりもいないでしょう。むしろ、主イエスがなそうとしてなせなかった宣教を(17)主に代わってなしたのです。自分の家族から始めて、なんとデカポリスの人々にまで。有名なパウロのことばを想い起します(コロサイ1:24)。<私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしている>とは、まさに至言ではないでしょうか。
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《お金と信仰について》

2015-07-12

 

「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。」 (マルコ10:23)

 

この御ことばは、所有している多くの財産の故に救いを受け損なったひとりの青年が帰った後で、主イエスが弟子たちに語られたものです(22)。◇誤解してはいけませんが、主は、金持ちは救われないと言っているのではありません。むずかしいと言われたのです。どれくらいむずかしいかと言うと、<らくだが針の穴を通る>よりもっとむずかしいと言われたのです。すぐに弟子たちは「それでは誰も救われないではないか」と反論しますが(26)、主イエスは、それは人には出来ないが、神にはどんなことでも出来ると答えておられます(27)。全能の神が働かれれば、金持ちも救われると語られたのです。◇ただ主イエスの意図された意味を汲み取れば、お金が信仰を豊かにすることはなく、かえって妨げになることが多いと言っておられるのでしょう。これには納得です。Ⅰテモテ6:9,10。<金銭を愛することが、あらゆる悪の根>とは、人の心の暗やみを穿った名言だと思います。実際に、お金が絡んでない悪はほとんどないでしょう。信仰生活においても、お金の問題でつまずく人はいるのです。私たちは<満ち足りる心を伴う敬虔>(6)を学ばねばなりません。◇ついでに<富んでいる人たち>に向けられた使信にも目を留めておきましょう。Ⅰテモテ6:17~19。<たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ・・・神に望みを置くように。>と勧められています。救いの完成や信仰生活の豊かさには、お金はまったく<たよりにならない>のです。反対に、主が嫌われる<高ぶり>に陥る危険が大きいのです(ヤコブ4:6)。誰だってお金の魅力には弱いのです。お金であろうと富であろうと、主なる神様以外に望みを置いている生き方こそ改めねばならないのです。
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《聞かれた願い》

2015-07-05

 

母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」(ヨハネ2:5)

 

これは『カナの婚礼』と呼ばれる有名なみことばです。ある教派はこのみことばを根拠にマリヤ(母)に祈ります。母の願いをイエス(息子)が聞いたと考えるからです。しかし、この願いは母だから聞かれたわけではありません。
カナで婚礼が開かれた当初、イエスは宣教を開始する予定ではなく(4節)、ただ弟子たちと共にお祝いに来ただけでした。しかし、そこで一つの問題が起こります。客に出す「ぶどう酒」が無くなるのです。祝宴の奉仕をしていたマリヤは、〈「ぶどう酒がありません」(3節)〉と息子に真っ先に問題を伝えます。それは、彼女は自分の息子のイエスならば、直ちに何とかしてくれると思ったのです。けれども、そのような安易な願いに対して、主は〈「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」(4節)〉と非常に厳しいことばで退けました。
ところが、主イエスは水をぶどう酒にかえる奇跡を行っています。何故なのでしょうか?ここにマリヤの母の子に対してではない、主への信仰があるのです。彼女は手伝いの人たちに〈「あの方(主)が言われることを、何でもしてあげてください。」(5節)〉と伝えました。これは、驚くべきことばです。あれだけ見事に退けられた後、もう一度問題と向き合い、今度はひとりの信仰者として心から主イエスを信頼したのです。これが主イエスの言われる、山をも動かす信仰(マタイ17:20)なのです。
主は一旦退けた願いであっても、その人が揺ぎの無い信仰で願うならば、その願いを聞いてくださるのです。マリヤのように主イエスを信頼しましょう。     (文:実成)
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