浦和聖書バプテスト教会

9月, 2015年

《恐れられる赦し》

2015-09-27

 

 しかし、あなたが赦してくださるからこそ、あなたは人に恐れられます。 (詩篇130:4)

 

この聖句を正しく理解しなければなりません。v3を抜きにしたv4は、偽りの赦しと言わねばならないからです。◇v3は、主なる神が、私たちの不義に気づかない、知らないでいる、知っても見なかった振りをする、という意味では決してありません。神は全知です(詩139:1~6)。善いも悪いもすべてご存知であられるのです。ですから、主が私たちの不義に目を留められないとは、私たちの不義や罪をすべて知っているのにもかかわらず、それを責めず、その償いを要求しない、という意味なのです(詩103:8~10)。もし要求されたら、死ぬしかありません(ローマ6:23a)。完全な赦しとは、本来このようなものなのです。◇では何故、聖であり義であられる神にこのような赦しが可能なのでしょう。言うまでもなく、ここに主イエス・キリストの十字架の秘儀があるのです(ローマ8:1~3)。神はご自分の御子の<肉において罪を処罰された>のです。覚えねばなりません。処罰なしの罪の赦しはごまかしです。罪は必ずさばかれねばなりません。そして、私の犯した罪は、本来、私の身において処罰されねばならないのです。しかし、あわれみ深い神は、私を赦すために、処罰を御子の肉において敢行されたのです。ハレルヤ。◇ですから、もはや、神は私たちの不義をさばく必要はまったくなくなったのです。さばきは完了したのです。私たちはすでに赦されているのです。誰でも<御前に立ちえる>のです。すべての罪と不義を知られているのにもかかわらず、御前に立ちえる―即ち、罪の責めや償いを求められないのです。このような赦しが何処にあるでしょうか。私たちは、この神の赦しを驚きと恐れをもって受けとめねばなりません。赦しをもって恐れられる方こそ、まことの救い主です。

音声はこちら

《回復への祈り》

2015-09-20

 

万軍の神、主よ。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。 (詩篇80:19)

 

ここにも<ぶどうの木>が出てきます。これまでと同じように、このぶどうの木は、神の民イスラエルを指しています。
◇この木は、かつてはエジプトで奴隷でした。しかし、神は彼らを救い出し、約束の地カナンに植えられたのです(8)。モーセ、ヨシュアの時代です。その後幾多の困難を乗り越えて、大きな繁栄を見ました(9~11)。ダビデ、ソロモンの時代を指しているのかも知れません。しかし、今は、その繁栄はまったく失われてしまったのです(12)。その実は食い荒らされ、畑はずたずたにされてしまいました。神の祝福を失ったイスラエルの姿がよく描かれています。◇このような状況の中で著者(アソフ)は祈ります。<神よ。私たちをもとに返し、御顔を照り輝かせてください。>(3)。同じ祈りのことばがv7にもv19にも繰り返されています。悲惨な状況をそのまま放って置くことが出来なかったのです。愛の神、祝福の神に戻ってきて欲しいのです(14)。そして、かつてのような繁栄を取り戻したいのです。これこそ、回復を願い求める祈りではないでしょうか。神の民であるなら、神が臨んでいてくださることが一番大切で、そこから始めねばなりません。◇言えることは、繁栄や祝福を取り戻す祈りは、神を再びお迎えする祈りでもあるのです。これは当然です。繁栄のみを求めて神を求めることを忘れているなら、それは神を知らない人の祈りと同じではありませんか。ただよくなりさえすればよいのでしょうか。ただ繁栄すればよいのでしょうか。私たちは神を信じています。私たちの信仰と希望は神にかかっているのです。私たちがもとに返ることは、再び主の御顔が照り輝くことなのです。私たちは、この時代の神の民として、同じ祈りをなさねばならないのではないでしょうか。
音声はこちら

《信仰人生で実を結ぶ》

2015-09-13

 

別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。 (マタイ13:8)

 

種はみことば、畑は私たちの心です。このことから先ず、実を結ぶ信仰人生は、みことばをどのように受けとめるかの私たちの心にかかっているといえるでしょう。◇初めに実を結ぶに到らない三つの例が語られています。1番目は、みことばの種が心の畑に落ちてないのです。これでは何も始まりません。2番目は、みことばが心に落ちるのですが、心の中が堅くて種が根をのばせないのです。上っ面だけの信仰ということでしょうか。みことばがその人の生き方、生活にまで浸透していないのです。3番目は、みことばの成長を妨げるものがいっしょに育っているのです。<世の心づかい>と<富の惑わし>と言われています(22)。これらはいずれも実を結ぶに到りません。◇実を結ぶのは、やはり<良い地>です。良い地とは、悪い地の反対を考えればよいでしょう。即ち、堅い石が取り除かれて柔らかい心で(エゼキエル11:19)、しかも、みことば以外に他のものが育ってないのです。ひとことで表現すれば、柔らかで清い心とも言えます。こういう心は、個人差こそあれ、必ず驚くほどの実を結ぶのです。ひと粒がひと粒のままで終わることはないのです(ヨハネ12:24)。時を経て芽を出し、成長し、花をつけ、実を結ぶに到るのです。◇私たちは改めて、みことばに対する自分の心が今どのような状態にあるのかを点検し直さねばなりません。エレベーターも電気もガスも必ず一年点検をします。それなのに、私たちの信仰の心だけが放って置かれてよいのでしょうか。私たちの心は常に変化します。対してみことばの約束は永久に変わりません。みことばが実を結ぶためには、私たちの方でなしておかねばならないことがあるのです。
音声はこちら

《ぶどうなのに酸い実》

2015-09-06

彼は・・・そこによいぶどうを植え・・・甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。   (イザヤ5:2)

 

植えられたのは<良いぶどう>なのに、どうして<酸い実>ができてしまったのでしょう。ここにも、実に今日的な使信を聞くような気がします。◇まずこの主人がぶどう畑になしたことに目を留めましょう。この主人は<よく肥えた山腹>を<掘り起こし、石を取り除いて>、ぶどうに最も良い環境をすべて用意してくださったのです(2)。<わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。>(4a)と問い返しておられます。よい実を結ぶために必要なことはすべて備えられていたのです。これが、聖徒たちが生きるために、愛の神がなしてくださっていることなのです。◇しかも、まだ一度も実を結ばないうちから<その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って>甘いぶどうのなるのを待ち望んでいたのです。神の聖徒たちに寄せる主の信頼と期待は何と大きいことでしょう。私たちが主を信頼するよりもはるかに大きい期待と信頼を、主は私たちに寄せておられるのです。言うまでもなく、この期待に答えるところに私たちの生きる喜びがあるのです。◇残念ながら、当時の神の民はこれを裏切ってしまいました(4b)。そのため彼らは国を失うという大変な苦しみを経験しなければならなかったのです(5,6)。私たちは絶対にこんな歩みを繰り返してはなりません。神の聖徒が酸い実を結んでしまう理由は、背信と罪しかありません。対して、よい実を結ぶための要件はただひとつなのです。ヨハネ15:4,5。主イエス・キリストにしっかりつながり、しっかりとどまっているなら、そういう人は多くの実を結ぶことができるのです。なぜなら、必要なものはすべて幹である主から来るからです。

音声はこちら


最近のメッセージ

年月別メッセージ

アクセスカウンター

  • 今日:172   昨日:125
  • Total:183784   Online User: 0