浦和聖書バプテスト教会

10月, 2015年

《死を生に変える》

2015-10-25

 

そして、その子どもの手を取って「タリタ、クミ」と言われた。(訳して言えば「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)(マルコ5:41)

 

生が死に変わる。これは誰もが必ずその時を迎えます(ヘブル9:27)。世の人々はそれを自然の摂理とも宿命とも言います。辛くとも諦めるほかありません。◇ここでもそうです。愛くるしいひとりの少女が死んでしまいます。父ヤイロはじめ人々は、彼女の生があるうちに主イエスに来て欲しかったのです。生がまだ残っているうちなら、主イエスの力によって助かるかもしれないと期待したのです。時は切迫していました。ところが、思わぬ邪魔が入ります(25~34)。その間に、とうとうこの少女は死んでしまったのです。◇彼女の死を告げに来た使者の言葉に注目しなければなりません(35)。主イエスを煩わすことがないとはどんな意味なのでしょう。死が絶望以外の何ものでもないことをよく物語っているではありませんか。死んでしまったら、もう何もできないのです。しかし、主イエスは、こんな時でさえ、何と、ヤイロに信仰を求めておられるのです(36)。「恐れないで、ただ信じ続けなさい。」絶対に覆えすことの出来ない絶望の中でさえ、求められるのは信仰なのです。信じ続けることなのです。主は悠然とこの絶望に向かっていかれます。私たちはここに、死を完全に治めておられる神の姿を見るではありませんか。イエスは神なのです。◇行き着くところは「タリタ、クミ」です。死が生に変えられたのです。これは、ここだけの話ではありません。やがて主イエスはラザロを生き返らせ(ヨハネ11章)、ご自身も十字架の死から三日目によみがえるのです。このような救い主が他にいるでしょうか。<彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。>(42)とあります。私たちも驚きをもってこのお方を受け入れねばなりません。ローマ8:10,11
音声はこちら

《イエスにつまずいた人々》

2015-10-18

 

こうして彼らはイエスにつまずいた。・・・イエスは彼らの不信仰に驚かれた。(マルコ6:3~6)

 

イエスにつまずいた人々が、イエスを幼少の頃からよく知っていた郷里(ナザレ)の人々であったとは、なんとも皮肉な話です。◇私たちは先ず、人間の知るということの限界を覚えねばなりません。イエスが神であられることは、人の知恵や認識によっては捉えることができないのです(Ⅰコリント1:18~21).。ですから、知ってから(理解してから)信じようとする姿勢は必ずこの限界に突き当たってしまいます。そればかりか、かえって知っていることが(3)信仰の妨げになってしまうのです(2)。人々は、ただいたずらに驚くだけでした。主イエスも<彼らの不信仰に驚かれ><そこでは何一つ力あるわざを行わなかった>のです。◇今、この手の不信仰がこの地上を覆っていることを正直に認めねばなりません。この地上では、何もかも、先ず知ることから始まるのです。これは、人間どうしの世界では当たり前でしょう。しかし、神を知ることは真逆なのです。人は先ず神を信じなければならないのです。神を認めなければ、目の前で神のわざが行われても戸惑うばかりです(2)。もし彼らが、イエスは神であると信じていたら、この戸惑いは大きな感動と喜びになったことでしょう。彼らは、人の姿をとった神を目の当たりにしたからです。◇私たちクリスチャンも注意しなければなりません。ひょっとしたら、イエスも驚かれるような不信仰が覆っているかも知れないからです。最後にヨハネ福音書21:1~7に目を留めましょう。復活の主に出会っていた弟子たちでさえ、主が見えなくなっていたのです。気落ちと不信仰が彼らの目を覆っていたからです。しかし、ひとりの弟子が気づきます。『主です』(7)。これは何と感動的な場面でしょうか。誰かが気づいて主を指し示さねばならないのです。
音声はこちら

《消えてしまった信仰》

2015-10-11

 

イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」(マルコ4:40)

 

ここで主イエスの言われる<信仰がない>とは、どういう意味なのでしょう。◇先ず注意しておかねばならない点は、これは決して、主イエスを信じていなかったということではありません。弟子たちは、信仰者として素晴しい出発をしたのです(1:16~20)。何もかも捨てて主に従うことなど、なかなか出来るものではありません。この時も、彼らは何の疑いもなく主イエスに従ったのです(35,36)。ところが<激しい突風>です。残念なことに、彼らは身の危険を感じて、いたずらにこわがるだけでした。嵐という現実に、信仰を持って対処することが出来なかったのです。これは、私たちの姿と重なるのではないでしょうか。◇何故こんな有様なのでしょう。ひとつ考えられるのは、この時はまだ歩み出したばかりで、信仰を働かせて現実の問題に対処するという訓練を受けてなかったのです。信仰が心の中にとどまるだけで、現実の生活はまだかつてのままだったのです。即ち、主イエスを信じていても、現実の生き方は、罪の時代のそのままが続いていたのです。その意味では、この経験は、人生の嵐に信仰を働かせて立ち向かうという格好の訓練となっているのです。◇但し誤解しないようにしなければなりません。主イエスは「信仰があれば、どんな嵐もこわくはない。こわがるのは、信仰がないからだ。」と教えておられるのではありません。この考え方が、多くの信徒を苦しめてきました(私もそのひとり)。しかし、こわいものはこわいのです。大切なのは、その中にあってどう信仰を生かすかです。こわがることが不信仰なのではなくて、信仰を働かせないことが不信仰なのです。これは他の事柄においてもまったく同じです。
音声はこちら

《心の嵐も大なぎに》

2015-10-04

 

イエスは起き上がって、嵐をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。 (マルコ4:39)

 

イエス・キリストは、人なのでしょうか、神なのでしょうか(41)。もち論、目に映る姿は人です。この頃の主イエスは30を過ぎた青年だった言われています(ルカ3:23)。◇しかし、ただの人であるなら、荒れ狂う湖をひとことで鎮めることが出来る筈がありません。どんなに特別な能力を持っている人でも、自然に向かって命令し、その命令どおりに従わせることなど出来る筈はないのです。主イエスは、人の姿を持った神なのです。人ですから、時には疲れを覚えることも(38)空腹を覚えられることもあります(11:12)。しかし神ですから、荒れ狂う自然を治めることもできるのです。◇では、私たちの心においてはどうなのでしょう。ある人は、いかに神であっても人の心を変えることはできないと考えます(ペラギウス)。しかし聖書を見ていきますと、そうでないのです。サウル(Ⅰサムエル16:14)ネブカデネザル(ダニエル4:28~33) 神である主は、自然を治めることはもち論、人の心をも変えることができるのです。神にはできないことはないのです(10:17)。ならば、私たちの心の嵐をも鎮めてくださる筈です。◇この嵐の中で弟子たちは、いたずらにこわがるばかりでした。主イエスは、そういう弟子たちを叱責しておられます(40)。主は、弟子たちの何を責めておられるのでしょう。嵐をこわがってはいけないと教えておられるのでしょうか。もしそうなら、私たちも弟子たちと同じ失格者でしょう。主が責めておられるのは<信仰がない>ことなのです。こわがることがいけないのではなく、嵐に囚われて信仰を働かせることができなかったことなのです。主イエスは<信仰がないのは、どうしたことです。>と問われているのです。
音声はこちら


最近のメッセージ

年月別メッセージ

アクセスカウンター

  • 今日:242   昨日:160
  • Total:174137   Online User: 1