浦和聖書バプテスト教会

12月, 2015年

《私を知っていてください》

2015-12-27

 

神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。(詩篇139:23,24)

 

すべてを知っておられる神に、なぜこのように祈る必要があるのでしょう。◇多くの人がこのことばを誤解しています。神が自分のことを知らないでいるから、知らせる必要があると考えているからです。全く反対です。これは『自分で自分のことが分からないから、全知全能であられる神様、あなたがわたしのことを知っていてください』というような意味なのです。<私を探り>とか<私を調べ>という言い方にそれがよく表されているではありませんか。皆目分からない将来の自分や闇に包まれてよく見えない自分の今の心を、全知であられる神に知っていてもらうための祈りなのです。◇ですからこの祈りは、自分という存在のすべてを神に委ね、お任せするための信仰による決意の祈りなのです。具体的に二つの事柄が挙げられています。ひとつは<思い煩い>です。実は私たちは、自分でも気がつかない思い煩いを抱え、そのためにわけの分からない不安や恐れにおびえているのです。魂の平安は、全知全能の神にすべてを知ってもらっているという安心感なのです。もう一つは<傷のついた道>(24)です。これも見えているようで見えないものです。否、見たくないのです。<あるか、ないか>と尋ねられたら、多くの人が悠々と「ない」と答えるのではないでしょうか。自分は平安だと思っているのです。◇罪は本能的に隠されるものです。すでに学んだように、エデンの園がそうでした。他の人に対しても、神に対しても、何よりも自分自身に対して隠されているのです。それがどれだけ私たちを苦しめていることでしょうか(詩32:3,4)。私たちは、こういう自分を丸ごと神に知ってもらう必要があるのです。愛の神は、それをしてくださるのです。
※音声なし

《神の全知性と信頼》

2015-12-13

 

神よ。あなたの御思いを知るのは、なんとむずかしいことでしょう。(詩篇139:17)

 

先週の礼拝で、神の全知性はすべての存在に先立っている(16)とお話しました。神はすべてを知られた上で創造されたのです。もち論、私たちひとりひとりをもです。◇一方人は、この神の全知性を知りたいという欲望を持っています。究めたいのです。この詩篇の著者もそういう試みを経ているようです。しかし、辿り着いた結論はv17でした。これは貴重な経験かもしれません。と言うのは、ほとんどの人が神を知ろうともしないからです。最近ではクリスチャンの中にさえ「神様のことはもう結構。聖書の学びもうんざりだ」という声を聞きます。恐ろしいことです。求めることをしないまま満ちてしまっているのです。黙示録の聖句(3:17)を想い起します。◇改めて、このv17が神を求めた人の実感が込められた告白であることに留意しなければなりません。彼は決して「神を求めても分かりっこないのだから、求めることは初めから無駄だ」と言っているのではありません。求めれば求めるほど、神の知恵の深さ、大きさに行き当たり、それに驚き感動しているのです。求めてみなければそのむずかしさは分からないのです。ろくすっぽ神様を求めることもしないで、この聖句を自分を正当化する拠り所にすることだけは慎まねばなりません。◇求めることと信頼することとを決して相反することにしてはならないのです。v18後半の告白は、諦めと否定から出た告白ではなく、驚きと感動から生まれた信仰告白です。少なくとも彼は、「あなたとともにいる」という恵みを盲目的に捉えてはいません。遠大な神の知恵が彼の人生を支えていることがよく分かっているのです。ただ信じることで始まった信仰が、ここにまで到達しているのです。ハレルヤ!
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《神に隠そうとする愚かさ》

2015-12-06

 

私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。(詩篇139:7)

 

神様は私たちのすべてをご存知であられます。これを神の全知性といいます。◇まずそれがどんなものか見ておきましょう(3~6)。<すわるのも><立つのも>と言われています。実に日常的な行動です。<私の思いを>とも言われています。心の中にどんな思いを抱いているかも知っておられるのです。<ことばが私の舌にのぼる前に>とは、まだ表現しないうちからということでしょう。驚くべきことは(13~16)、神の全知性は、私たちの存在に先立っているという点です。これは人間には絶対に出来ないことです。◇さて、神様の前には、こんなにもすべてがあからさまなのに、人はどうして神様からのがれようとしたり、自分を隠そうとしたりするのでしょうか。私たちは、人のこの原風景をエデンの園に見ます(創世記3:8~11)。注目しなければならないのは、人がなぜ神を避けるようになってしまったか、です。答えは明らかです。罪を犯したからです。私たちは、罪のこの原初的な働きを自分の中にも見ます。自分の内にある罪が、<主の御顔を避け>させ、自分を<隠す>ようにさせるのです。これは、罪を犯した幼い子が、お父さんの顔をまともに見られなくなっている姿になぞらえることが出来るでしょう。◇愚かなことです。隠している罪がいつ発覚するのかを恐れながら、心理的な圧迫と緊張の中で過ごさねばならないからです。これが現代人の病的な姿といっても過言ではないでしょう。エデンの園で、人が罪を犯したその日のうちに、神が人に臨まれたことに留意しなければなりません。「あなたは、どこにいるのか。」神は、その隠された罪を放って置かれないのです。これこそ、十字架からの主イエスの呼びかけなのです。
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