浦和聖書バプテスト教会

1月, 2016年

《悪の栄えと神の沈黙》

2016-01-31

主よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。 苦しみのときに、なぜ、身を隠されるのですか。  (詩篇10:1)

 神が全知全能のお方であるなら、何故、この世に多くの悪が栄えているのでしょう。◇いつの世でも同じなのでしょう。悪者が栄えています。彼らは<心の欲望を誇り>神の存在すら認めません。「神はいない」のひと言に尽きるのです(3,4)。それなのに<彼の道はいつも栄え>(5)自信でみなぎっています(6)。しかも彼らは<不幸な人><悩む人>をえじきにして肥えふとっているのです(8,9)。こういう世の現実は、私たちが今生きている時代も決して例外ではないでしょう。◇対して、弱き者や貧しい者は、いつも虐げられ苦しめられています。これも現実です。<不幸な人は、強い者によって砕かれ、うずくまり、倒れる>(10)のです。神を信じている者も、悪者の栄える姿に圧倒され、神がこの世界に介入しておられることを信じられなくなってしまうのです(1,12)。<なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。・・・なぜ、身を隠されるのですか。> これは神学の問題ではなくて、私たちの現実の問題です。悪の栄えの陰で、苦しめられている人の実感です。正直、私たちの心の中にも、同じ思いがあるのではないでしょうか。◇しかし、この詩篇の素晴しいところは、この不条理の世を生きぬいた結果分かったことです(14)。実は、神はすべてを見ておられたのです。じっと見つめておられたのです。これはもち論、悪者の罪だけではありません。<害毒>はそれによって苦痛を受ける者もいます。その者の苦しみも、神はよく知っていてくださったのです。そして分かったことは<あなたはみなしごを助ける方でした。>なのです。また、<主は世々限りなく王である>(16)なのです。苦しみを生きぬいたこの悟りこそハレルヤです。

《不従順を正当化する》(2)

2016-01-17

 

こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。(マルコ7:13)

 

ここではコルバンという<しきたり>に注目してみたいと思います。◇今となっては何も分かりませんが、恐らく、神にささげることと両親を敬うこととが対峙してしまうような事態が生じたのでしょう。こんな場合どちらを優先するのが信仰的かとなると、人に従うより神、となります。しかしその結果、親を粗末にしたという後味の悪い思いが残ります。これを解消し、罪意識を軽減するために生まれたのが、コルバンというしきたりだった考えられます。◇主イエスは、当時のこういうしきたりを<神のことばを空文にしている>と指摘しておられるのです。こういったことは、いつの時代にも生じてきます。しかし、どんな理由があろうと不従順は不従順なのです。神のことばに従わなくてよい<しきたり>や<言い伝え>を絶対に作ってはならないのです。どんな理由があっても、それを不従順と受けとめる姿勢こそ、素直な、ありのままの姿勢と考えねばなりません。父母を敬わなくてよいという神の教えなどあろう筈がありません。神に従っているのだから人を無視してよいとなると、神の戒めを破っていることになるのです(12:28~31)。◇この課題は、私たちに当てはめれば、現実の社会生活と信仰生活との関わりとして捉えることもできます。我々日本のクリスチャンはユダヤ人以上に『自分なりのコルバン』を設けたくなってしまうのではないでしょうか。しかし結論から言うと、社会生活を犠牲にした信仰生活はないし、信仰生活を犠牲にした社会生活もあってはならないのです。ここに普遍的な課題があると言わねばなりません。苦しくとも、決してコルバンを設けて楽になってしまってはならないのです。
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《しきたりと信仰と偽善》

2016-01-10

 

「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。(マルコ7:6)

 

<しきたり>や<言い伝え>といいますと、私たち日本の社会とユダヤ人社会とでは全く違う面があります。彼らのそれは、すべて聖書の教えから出ているのです。ですから、それが始まった当初は、それなりの意義を持っていたと想像できます。ところが時がたつにつれて、それは表面的、形だけのものになってしまい、本来の意義が失われてしまっていたのです。◇議論のきっかけは、イエスの弟子が<汚れた手>のままでパンを食べたのがパリサイ人の目に触れたことにあります。これは単に衛生面の意味よりもはるかに宗教的な意味があります。神を汚しているというのです。即ち、パリサイ人の信仰からみれば、弟子たちの行為は神を冒瀆していることになるのです。黙って見逃すわけにはいきません。弟子のしたことは、師であるイエスへの疑義、非難になったのです(5)。◇これに対する主イエスの答えは、人間の本質を見抜いたものでした(6~8)。決して自分の弟子を弁護しているのではありません。その心が本心から神を崇めているかどうかを問題にしておられるのです。主はイザヤ書29:13聖句を引用して、パリサイ人の偽りの在り方にするどく迫ります。はっきりと<あなたがた偽善者>と言います。口先では神を敬いながらも、その本心は神に背いているからです。◇これには私たちも驚かされます。少なからず、自分の姿と重なるからです。最も典型的な例は、イスカリオテ・ユダでしょう(ヨハネ12:3~6)。盗みをしながらも、口先では貧しい人々への愛を力説できるのです。続く引用聖句にも留意しなければなりません(7a)。私たちの礼拝が絶対にこんな風にならないよう心掛けねばなりません。『ありのままで神の前に出る』とは、この偽りの在り方を改めることでもあるのです。
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《実を結ぶために》

2016-01-03

 

良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、 三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。(マルコ4:20)

 

新しい年が始まりました。この年も、信仰においても実生活においても実を結ぶ一年にしたいものです。三つの大切な点を覚えましょう。◇先ず何よりも大切なのは、冒頭のみことばに語られていることです。<みことばを聞いて受け入れ>と主は言われます。これはクリスチャンの最も基本的な生き方です。この姿勢を欠いていたら、クリスチャン人生は始まらないのです。主は、みことばを聞いても実を結ばない例を三つ挙げておられますが、絶対にこんな風にならないようにしなければなりません。みことばを聞くこと、そして聞いたことを自分の生き方として受け入れていくことです。◇第二に大切なことは、詩篇1:2,3で示されていることです。ひとことで言うなら、みことばに養われることです。<水路のそばに植わった木>というたとえがこのことをよく物語っています。この年も、いろんな意味で何度か人生の旱魃といったようなことに遭遇するでしょう。しかし、みことばに養われているなら<その葉は枯れない>し<時が来ると実がなる>のです。二つのことを心掛けてください。一つは日々のデボーションです。もう一つは教会の集会に出席することです。◇最後にもう一点、霊的で神秘的なことを挙げたいと思います。ヨハネ12:24の主のみことばです。<地に落ちて死ぬ>とあります。主がこれをご自分の十字架を指して語っておられるのを見逃してはなりません。自分に死に、主のみこころに生きる。その者が<豊かな実を結ぶ>のです。自分の考え、自分の気持ちを押し通す信仰生活にはトラブルが絶えないのです。主は<一粒の麦>となって死なれました。私たちにも同じ生き方が求められているのです。
※音声なし


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