浦和聖書バプテスト教会

2月, 2016年

《神とのつながり》

2016-02-28

『心を尽くし、思いを…知性を…力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』
         (マルコ12:30,31)

 世相を反映しているのでしょうか。この頃やたらに「きずな」とか「つながり」という言葉に出くわします。しかし、ほとんどの場合が人と人との関係で使われており、神との関係を意味していることはめったにありません。それほどまでに、人はもう神とのつながりを考えられなくなっているのでしょう。◇決して、人とのつながりはどうでもよいということではありません。確かにあの大震災以来、それまで希薄であった人と人とのつながりを新たに意識し、取り戻すようになり、それは実に好ましいことだと思います。クリスチャンでなくても、自分を愛するように隣人を愛することの大切さには賛成してくれるでしょう。しかし、それだけでよいのでしょうか。神を愛する心のない人に、はたして隣人を愛することができるのでしょうか。◇他の人のことは分かりませんが、少なくともこの私にはそれは全くできませんでした。主イエスの救いを知らないでいたときには、自分のことしか考えられなかったのです。恥ずかしくなります。変えられたのは、主イエスがこの罪深い自分のために身代わりとなって、十字架の上で神のさばきを受けてくださったことを知ってからでした。Ⅰヨハネ4:9,10の聖句は、私にもぴったり当てはまります。◇今はっきり言えることは、真実の愛で人とつながろうとするなら、先ず神とつながらねばならないということです。愛は神から来ているからです(同4:7)。神とつながり、神の愛を知ってこそ、人とつながることができるのです。自分の現実をありのままに認めねばなりません。何と隣人を愛せないことでしょうか。何と自分のことしか考えられないことでしょうか。自分から出た愛は、実にもろく、壊れやすく、時にはいとも簡単に憎しみに変わってしまうのです。

《悪を行う者に対して》

2016-02-21

悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対してねたみを起こすな。    (詩篇37:1)

 この聖句も、ある人たちには誤解されています。これは決して、悪者をただ黙って見逃せと言っているのではありません。◇誰にも腹を立てたことがあると思います。その時を想い起せば、それが本来の自分の姿を失っている情態であることにすぐ気づきます。腹を立てている時は、ある種の興奮状態にあるのです。異常な感情の高まりです。その激しい感情に任せて事を行うと、たいてい失敗や取り返しのつかないことを仕出かしてしまうのです。v8はこのことを説いていると言えるでしょう。ですから<腹を立てるな。>とは、悪者に対しても、義を貫いた冷静で理性的な対応をしなさいという意味を含んでいるのです。◇<ねたみを起こすな。>も同じように解釈しなければなりません。不正を行ってぼろ儲けをしてるような人に対しても、その手に入れた富の魅力に動かされて、うらやんだりねたんだりしたら、自分のほうが罪に陥ってしまうのです。実際にそういう人がいなくはありません。不正そのものをうらやむ人はいないでしょうが、それによって得た益には動かされてしまう危険があるのです。◇しかし、幸いなことに、神のみことばは、このような否定的な教えにとどまらず、さらに肯定的、積極的な教えを忘れてはいないのです。それがv3,5,7です。罪を犯さないだけでは、クリスチャンの生き方はまだ消極的です。<主に信頼して善を行え。>であります。悪を行わないのは当たり前。それ以上に、神を信頼して善を行うところに自分の生き方を定めていかねばなりません。この積極性に関しては、私たちはまだまだ乏しいのではないでしょうか。悪に陥らないためだけに汲々としている生き方は、何となく律法主義者の匂いがします。

《点でなく線として》(3)

2016-02-14

まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。           (詩篇30:5)

 義なる神は、確かに私たち人間の罪や悪に怒りを表すお方です。しかし、この地上の人生においては、それは決して最終的で取り返しのつかないものではありません。◇<御怒りはつかの間>と言われています。詳しくは、詩篇103:8,9を見れば充分でしょう。この点では、人間のほうがよっぽど執念深いと感じます。人は時と場合によっては決裂にまで到ってしまいます。対して<あわれみ深く、情け深い>神は、<いつまでも怒っておられない>のです。勿論、私たちが悔い改めをもって御前に出るからです。主イエスの十字架の赦しは、私たちの現実の歩みにおいてもアーメンなのです。◇対して<いのちは恩寵のうちにある。>と言われています。これは勿論永遠のいのちです。主イエスによって与えられたいのちは、途切れることなく、とこしえに保たれているのです。クリスチャンは、肉のいのちだけでなく、このいのちによって生かされている者なのです。ですから、つかの間の怒りに触れても、それで人生が終わるわけではありません。怒りに触れている最中は、神のあわれみも、与えられているいのちも見えなくなるかも知れません。しかし、それは<つかの間>、過ぎ去っていくのです。◇ですから私たちは、自分の信仰生活に決して失望したり、諦めてしまったりしてはなりません。たとえ罪の怒りに触れている時もです。<夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。>のです。今辛い涙の中にあっても、それは<つかの間>、夜明けとともに<喜びの叫び>が戻ってくるのです。信仰による人生は、確かにつながっています。私たちは、このつながりで過去を辿り、このつながりでこれからの人生に希望を置くことが出来るのです。ハレルヤ。

《全体と個という課題》(2)

2016-02-07

どうか、悪者どもや不法を行う者どもといっしょに私をかたづけないでください。   (詩篇28:3)

 もう少し詳しく言い換えると、全体としての世とクリスチャンである個としての私がどう関わるかという課題です。◇この点において、私たちは実にユニークな存在です。私たちは、全体としての世に組み込まれて、ただ時代の流れに押し流されていく者でもなく、かと言って、世との関わりを絶って孤立した者でもないのです。パウロは<この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ・・・>(ローマ12:2)と言います。ヨハネも<世と世の欲は滅び去ります。しかし、・・・>(Ⅰヨハネ2:17)と言います。私たちは、この独特な在り方に自分を据えて生きていく者なのです。◇しかし、きょうの詩篇聖句の示す課題は、神が全体としての世をさばかれるとき、私たちがどうなってしまうのかです。もし神が、終末最後のさばきのように、悪者だけを選んで確実にその者だけをさばかれるのなら何の問題もないのです。言い換えれば、世を神のさばきが襲っても、神に従う者はそれに会わないのなら何の疑問も起こらないのです。しかし現実はそうではありません。神に従う者も、神に逆らう者とともに苦しむことになるのです。旧約時代の伝道者も、この現実の課題にぶち当たっています(伝道者の書9:2,3)。◇きょうの詩篇聖句の意義とその重みが俄かに増して来るではありませんか。これは祈りであり、主に向かっての切なる訴えなのです。決して不信仰のことばではありません。<私に口をつぐまれて、私が、穴に下る者と同じにされないように。>(1b)とも祈ります。この地上に世が続く限り、定式化された解答などないのです。むしろ、この切なる祈りを心に秘めて、ひたすらに神の御旨に生きるところに、私たちの信仰生涯があるのです。


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