浦和聖書バプテスト教会

3月, 2016年

《復活のいのちを受けて》

2016-03-27

人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。 (マルコ12:25)

 サドカイ派の人たちの質問は、たち(質)の悪いものでした。主イエスを攻撃し、復活がないことを立証しようとしているからです。◇最初に少しだけ、彼らの質問に触れておきましょう(v19~23)。これは理論の上では成り立ちますが、実際には起こり得ない事でしょう。こういうのを「机上の空論」と言うのです。彼らの意図は明らかです。復活がないことを立証し、イエスをぺちゃんこにしようとしているのです。これは現在も続いている合理主義者たちからの攻撃なのかも知れません。◇これに対する主イエスの答えは明解です。復活を否定するとは、とんでもない<思い違い>をしているからだと指摘します(24,27)。ミステークだと言われるのです。かえって<聖書も神の力も知らない>ことを露顕していると切り返しています。二つの御ことばに注目しましょう。ひとつはv25です。この地上の性の区別をそのまま天に当てはめることはできないのです。<天の御使いたちのよう>と言われます。天使には性別などありません。この地上の事柄で天を推し量ろうとするから復活が信じられないのです。◇さらに注目したいのはv26,27です。アブラハムもイサクもヤコブも、とうの昔に死んでしまった人たちです。ならば、主イエスは何を示しておられるのでしょうか。言うまでもなく、これは肉体(地上)の生命の有無を意味していません。モーセは誰よりも彼らがどんな生き方をしたか知っていた人です。彼らは、全能の主に捉えられて地上の人生を生き抜いた人たちです。その同じ神が、今度はモーセを捉えたのです。彼らを生かした同じ主が、これからはモーセを生かすのです。これが復活のいのちです。ハレルヤ

《主に拒まれたと思える時は》

2016-03-20

それなのに、あなたは私たちを拒み、卑しめられました。あなたはもはや・・・    (詩篇44:9)
 
 長い信仰生涯には、時には、神に拒まれていると思える時があります。そんな時、どうしたらよいのでしょう。原因が自分にあると分かれば悔い改めることが出来ます。しかし、それすら思い当たることがない場合は。◇この詩篇著者がぶつかったのは、まさにそのような課題なのです。彼らは<先祖たちが語ってくれたこと>を忠実に踏みしめ、自分の力に頼まず、主の救いにしっかり依り頼んで生きてきたのです(1~8)。信仰者としての最も基本的な姿勢を貫いてきたと言ってもよいでしょう。ですから当然、先祖たちが預かった主の恵みに自分たちも預かれると信じていたのです。◇ところが、今置かれている現実は、まったくそうではないのです(9~16)。敵の虐げを受け、主の臨在が見えなくなってしまい、彼らは、主に拒まれているとしか思えない状況に置かれたのです。人間的な言い方になりますが、不信に陥る正当な理由があると言えなくもありません。主イエスの十字架上でのあのことばを想い起します(マタイ27:46)。しかし、このことばを不信仰から出たと捉える人はひとりもいないでしょう。◇では、こんな時、彼らはどうしたのでしょう。先ず第一に、主を忘れず、主の約束を無にするようなことはしなかったのです(17~19)。彼らの主に寄せる信頼は揺るがなかったのです。さらに加えて素晴しいのは、彼らは、生ける主を呼び求めています(22、23)。信仰に踏みとどまるだけでなく、自分たちの矛盾した現実に主が介入してくださるように強く呼び求めているのです。私たちが実践しなければならないのは、むしろこの点ではないでしょうか。生ける主は生ける信仰に臨まれるのです。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神なのです(マタイ22:31)。アーメン

《つながる愛の三要点》

2016-03-13

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。    (Ⅰヨハネ3:16)

 この一節の聖句には、つながりのある三つの愛の要点が示されています。◇まず第一は<キリストは、私たちのために、いのちをお捨てになりました。>です。これは愛の根拠であり原点です。同4:9,10。キリストの十字架がなかったなら、誰一人、神の愛を知ることはなかったでしょう。実は、主イエスと地上の時を過ごした直弟子たちでさえ、最初の頃は何が起こったのかまったく分からなかったのです。しかし、十字架が自分たちの罪の贖いであることが分かった時、彼らはそこに測り知れない神の愛を見たのです。◇ですから第二に、十字架によって神の愛を本当に理解できたのです。<それによって私たちに愛がわかったのです。>と言われています。それまでにも漠然と神の愛を信じてはいたでしょう。しかし、キリストの十字架によって、それが具体的に、鮮やかに理解できたのです。<わかった>(エグノーカメン・完了形)ということばは重要です。この人々が真のクリスチャンだからです。十字架に神の愛を見出せない人は決してクリスチャンにはならないでしょう。最初は分からなくても、ある時<わかった>言える時がくるのです。◇この愛が分かると、生き方が変わります。<ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。>とあります。このことばを、遠い理想に置いておいてはなりません。ペテロもパウロも、実際に、兄弟のためにいのちを捨てたのです。著者ヨハネだって、兄弟のために、パトモス島に幽閉されたのです。近い将来、このことばが俄かに現実味を帯びるときが来るかもしれません。否、もう来ていると思うべきなのかも知れません。

《赦す心と仕えること》

2016-03-06

私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』(マタイ18:33)
 
 このたとえ話は、本来赦しについて主イエスが教えられたものですが、きょうはこれを「仕える」という視点で読んでみたいと思います。◇なぜこんなことをするかというと、兄姉に仕えるためには、絶対に赦す心が必要だからです。この点で私たちも何度か悲しい経験をしています。主にある交わりから離れてしまうのは、赦せないからなのです。たいていの場合が、責められた人が責めた人を赦せないのです。たとえそれが善意から出たことであってもです。注意をし、責める側にも愛の欠如という問題はありますが、それと同じくらい、責められた側にも赦す心の欠如という問題があるのです。◇主イエスのたとえ話に目を向けましょう。ここには、赦されたのに赦せない人が登場します。なぜこの人は自分の仲間(兄姉)を赦せなかったのでしょう。主イエスはその理由を明らかしてませんが、充分想像がつきます。彼は、自分の赦された意味を理解してなかったのです。赦されたという事実は知っていても、それがどんなに大きなことか理解してないのです。<1万タラント>という天文学的な数値と彼の言葉に(26)それがよく示されています。比して<百デナリ>という数値は、きわめて現実的な数値ではありませんか。
◇他人事ではありません。神様との関係が隣人との関係にまったく活かされてないのです。主イエスの十字架によって救われているのに、隣人との関わりでは百デナリの十字架を負うことさえ出来ないのです。主イエスの厳しい最後のことばに注目しなければなりません(35)。<心から兄弟を赦さないなら>と言われています。兄姉に仕える奉仕には、この心が絶対に必要なのです。この心があれば、どんな奉仕もやり遂げることができるのです。アーメン


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