浦和聖書バプテスト教会

4月, 2016年

《実を結ぶ人生への召き》

2016-04-24

わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、同じように滅びます。(ルカ13:5)

 誰にも分かると思いますが、この<いちじくの木>は、悔い改めのない人の姿を描いています(v6~9)。◇先ずこのいちじくが、ぶどう園に植えられていることに注目しましょう。ぶどう畑にはぶどうの木、それが自然です。ところがその一郭にいちじく、これには何とも違和感を覚えます。しかし、これが私たちの恵みなのです。私たちは特別にぶどう園に植えられているのです。勿論実を結ぶためにです。このいちじくは、植えられてから3年も経っていました。その間、ぶどうと同じ恵みに与り、木は順調に大きく育っていたのです。しかし、肝心かなめの実を結んでいないのです。◇いちじくが実を生らせないのなら<何のために土地をふさいでいる>のでしょうか。大げさでなく、存在する意味がないのです。このままでは<切り倒される>以外にありません。私たちは、何故こうなのか考えてみなければなりません。答えは明らかです。v3,5の続きであり、説き明かしなのです。即ち主イエスは、悔い改めのない人生は実を結ぶことは出来ませんよ、と教えておられるのです。◇パウロのことばにも目を向けねばなりません(ガラテヤ5:22,23)。これらの実はすべて、御霊の取り扱いによって産まれてくる人格的な実なのです。業の実ではありません。大切なことは、悔い改めのない心には御霊は働かれないという信仰上の真実です。神を拒むことは御霊の働きを拒むことであり、それは自分で自分の人生を滅びに定めることなのです。◇最後に、ぶどう園の<番人>のなしてくれていることに注目です(8,9)。これぞ主イエスのとりなしです。主は、悔い改めをもって始める新しい人生に私たちを召いておられるのです。それは、実を結ぶ新しい人生への出発なのです。

《災いをどう受けとめるか》

2016-04-17

 わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、同じように滅びます。(ルカ13:3)

 注目したいのは、主イエスが事件そのものには一切触れず、報告を持ってきた<ある人たち>の何かを問題にしている点です(3,5)。◇彼らの心の中にある物事の捉え方、考え方、そこから生じる生き方、そこに主はメスを入れておられるのです。ひとことで言うと、彼らの心を占めていたのは因果応報の考え方でした。即ち『災難にあった人々は特に罪深いからだ』とどこかで考えていたのです。この考え方は全面的に否定されるべきではありません(ガラテヤ6:7~10)。しかし、この見方を、災いを免れた私が災いを受けた人に向けると、なんと冷酷なさばきの目になることでしょうか。主が問題にしておられるのは、まさにこの点なのです。◇関連して次のことが浮上してきます。彼らは起こった悲惨な出来事を3人称複数形で捉えています。「あのひとたち」であって「私」ではないのです。そこには、物事を客観的に正確に捉える目はあっても、その悲惨さ残酷さを感じ取る心が乏しいのです。どこか「他人事」なのです。これは議論するのには適しているでしょうが、愛や思いやりは生まれてきません。これも大きな問題であると言わねばなりません。必ずしも、正しい理解が同情や助けを産むとは限らないのです。◇物事の理解は、人称が近ければ近いほど本物になります。もし殺された人の中に身内が一人でもいたら、こんな冷静な報告などしていられないでしょう。「知る」とか「理解する」ということを、この姿勢に置き換えねばなりません。主が悔い改めを迫っている理由がここにあります。悔い改めは1人称単数形でなければ絶対に成り立ちません。外界の他人事が、内面の私の事になるのです。私たちは、他の人の災いを見て悔い改める心を持つクリスチャンにならねばなりません。

《イエスに目をとめよ》

2016-04-10

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。    (へブル12:2)

 信仰生活に起こる試練は、時に神への信仰を弱らせます。それは当時のキリスト者にも見られたようです。彼らは迫害と背教によって意気消沈させられました。こういった者に対して、みことばは「イエスに目をとめよ!」と語りかけるのです。何故、イエスに目をとめるべきなのでしょうか?2つの点で教えられます。
 ◇第一にイエス・キリストは信仰の創始者、すなわち信仰の模範だからです。v2〈創始者〉という言葉は、「指導者」という意味にもとれる言葉です。しかし「ああしろ、こうしろ」と指示するというのではありません。信仰の歩みを先に走っておられ、その上で私たちが走り続けられるように導いてくださる模範なのです。先に走っているのですから、当然私たちの苦しみや悲しみを知っておられます。イエスはこのような信仰の模範なのです(Ⅰペテロ2:21-22)。
 ◇第二に模範であられるイエス・キリストこそ、十字架で贖いを完成されたからです。みことばはv2〈ご自分の前に置かれた喜びのゆえに〉十字架を忍ばれたと教えています。イエスにとって十字架は、苦しみよりも喜びの方が勝っていました。いったい何が喜びなのでしょうか?それは全人類の罪を贖い、この私が救われることなのです。ですから、イエスは十字架の苦しみから逃げず、それを喜んで受け入れたのです。しかも、イエスは十字架で多くの試練を忍耐されました(Ⅰペテロ2:22-24)。そうした、犠牲によって贖いは〈「完了した。」〉のです(ヨハネ19:30)。
 ◇ですから、私たちはイエスに目をとめるのです。そうした時、必ず信仰の喜びが溢れてくるのです。これ以上に、私たちを喜ばすものは何も無いのです。     (文:実成)

《主が再臨されると…》

2016-04-03

 狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎともに伏し、 …乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ(イザヤ11:6~10)

 主イエスが再びこの地上に来られると、この世界はどのように変わるのでしょう。このイザヤの預言は、見事にそれを描き出しています。◇まずキリストの支配が全世界に及び、この地上からすべての罪、すべての悪が取り除かれるのです(10)。これは、今の私たちには想像すらできませんが、罪のない世界、サタンの働きのない世界が到来するのです(黙示20:1~3)。<主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たす>(9b)と言われています。◇従がって第二に、一切の争いもなく、血を流すこともない真の平和が訪れるのです(6~8)。これは人間の世界だけではありません。動物の世界、自然界も、争いや対立、憎しみや復讐のない世界となるのです。私たちの今の世界とは何と異なることでしょうか。私たちが今見ている世界には、争いのない平和などまったくないのです。人はなぜ争うのでしょう。因みに、この静穏で平和に満ちた世界こそ、創造主が始めに造られた世界であったことを覚えねばなりません(ローマ5:18,19)。その意味では、主イエスの再臨は、失われたこの世界を創造の原初に取り戻すことでもあるのです。◇最後に、これが預言のことばとして私たちに啓示されていることに注意しましょう。キリスト信徒の最後的な希望がここにあるのです。しかし、決してこの希望を遠い未来に置いておいてはなりません。ここに希望を置いて日々の生活を生きねばなりません。この点において、私たちの信仰は少し欠けていたようです。心の中に、マラナ・タ「主よ、来てください」(Ⅰコリント16:32)という強い祈りがあるでしょうか。あまりに地上のことだけに心を奪われていて、信仰生活の希望も目標も地上の事柄にとどまってしまっているのではないでしょうか。


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