浦和聖書バプテスト教会

5月, 2016年

《成長を妨げる信仰》

2016-05-29

  「神の国は、何に似ているでしょう。・・・それは、からし種のようなものです。・・・パン種のようなものです。    (ルカ13:18~20)

 注意しなければならないことは、このたとえが前の箇所と同じ場所で同じ時に語られている点です(未完了過去)。◇当然そこには明確なつながりが意図されている筈です。それが何であるかを汲み取るために、私たちはもう一度会堂管理者の信仰に目を向けねばなりません。彼は確かに神を信じています。当時のユダヤ人社会では、重要な信仰上の働きを担っていたのです。しかし、信仰さえ持っていればそれでよいというのではありません。繰り返しは避けますが、彼の信仰はその責任の故に硬直化しドグマ化してしまっていたのです。主イエスはそれを打ち破って、敢えていやしの御わざを行われたのです。◇このたとえの意図が見えてきます。<からし種>も<パン種>も、人の目には見えないほど小さなものですが、大きく成長する力、拡大(発酵)する力を持っています。もし主イエスがこの場で、モーセ十戒の第四戒を教条的、機械的にまもっていたら、神の国の成長や拡大はストップしてしまうのです。神の救いの御わざが行われ得ない信仰とは何なのでしょう。確かに主なる神は、私たちの信仰に答えて御わざを行ってくださるお方です。◇気をつけねばなりません。ドグマ化した信仰は、かえって神を閉め出し、信仰に死をもたらしてしまうのです。成長には、絶えず繰り返される変化が伴います。生きているということは、時と場に対応して変化していくことです。<おりにかなった助け>(ヘブル4:16)ということばがありますが、神の働きをセメントで固めたように定式化、固定化しては絶対にいけません。それは神を殺し、自分を殺すことになるのです。神は、私たちの個々の現実に、今も生きて働いておられるのです。アーメン

《神の忍耐の間に…》

2016-05-22

・・・かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(Ⅱペテロ3:9)

 当時も今も同じですがv4〈キリストの来臨の約束はどこにあるのか。〉と言って生きている人々が沢山います。確かに人から見れば遅れているように感じます。しかし、みことばはその理由をv9〈(神が)あなたがたに対して忍耐深くあられる〉からと言うのです。では、この神の忍耐とは何なのでしょうか?
 神の忍耐を知る上で、最初に人の忍耐について考える必要があります。人の忍耐というのは限界があり、限界を超えれば怒りに変わります。それは「我慢」という側面が大きいように思います。また、人の忍耐は機嫌が良ければ持続しますが、悪ければ持続しません。非常に小さい忍耐であると言えます。
 ところが、神の忍耐は人のそれとは全く違います。限界がないのです。みことばはv3〈終わりの日に、・・・自分たちの欲望に従って生活〉すると言います。これは、罪に支配され欲望のままに生きているという事です。しかも、それだけではありません。神をあざけり、馬鹿にするというのです。こういう生き方をしているのが人なのです。ですから、神は人に対して確実に怒っています。しかし神は、再臨の時まで忍耐し続けるのです。何故でしょうか?それは、v9〈ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる〉からなのです。神は、すべての人が悔い改めることを望んでおられます。ですから、今も寛容な心で忍耐を続けておられるのです(ローマ9:22-23)。
 今はこのような神の忍耐の期間なのです。ですから、この期間に神に悔い改めるべきです。何故なら、やがてこの忍耐が終わりを告げるからです。そうなってはもう遅いのです。神に悔い改める歩みをいたしましょう。       (文:実成)

《まちがっている正しさードグマ化》

2016-05-15

すると、それを見た会堂管理者は、イエスが安息日にいやされたのを憤って・・・  (ルカ13:14)

 会堂管理者はなぜ憤ったのでしょう。背景にモーセ律法の第四戒(出エジプト20:8~11)が関連していることは確かです。◇彼は自分が責任を負っている会堂で、神の大切な戒めが破られたと受け取ったのです。見過ごす訳にはいきません。神を礼拝する会堂で、公然と、神の普遍律法と言われている十戒の一つが破られたのですから。しかも、自分が管理している会堂でです。他人事で済ます訳にはいきません。彼の今後の人生にも関わってくる事態です。彼が憤った理由は、大よそこんなところでしょう。◇素朴な疑問が湧き上がってきます。もし彼の思い通り第四戒が守られていたら、主イエスの御わざは行なわれず、この女性は病から解放されないままだったのです。私たちの素直な感情は「それはおかしい」と思うのではないでしょうか。神の戒めが遵守されているのに、他方において、苦しみのとりこになっているひとりの女性を助けることができないからです。彼が憤るとは、この女性にこのまま苦しみ続けなさいということになってしまうのです。私たちは、彼の信仰の在り方に疑問を感じない訳にはいきません。どこかおかしいのです。◇主イエスの御ことば(15,16)から教えられねばなりません。先ず主は<偽善者たち>と厳しく臨んでおられます。<…たち>ですから、彼ひとりだけでなく、彼のような人が多いということになります。私たちも、こういう類の偽善があることに気づかねばなりません。主イエスの教えには、むずかしいことは何もありません。<牛やろば>だけでなく、人も生きているのです。ただ一律に御ことばを機械的に守ることで、はたして本当に神に従っていることになるのでしょうか。考えさせられます。

《この時代で祈るために》

2016-05-08

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。   (Ⅰペテロ4:7)

 現代は祈りが失われていく時代と言われます。しかし、みことばは祈る事を勧めています。では、この時代に祈る為に何が必要なのでしょうか?2つの点で教えられます

 第一の点は心を整えるという事です(v7)。このみことばは非常に厳しい命令で書かれ、「心を整える事を絶対にしなさい。」という意味があります。どうしてこんなに厳しく教えるのでしょうか?実は、この世には多くの心動かされる事柄があり、心を整えないと祈る事ができなく成ってしまうからです。そうならない為に、私たちは信仰によって自らの心を保っていく事が求められているのです。そして、心を整えるとき祈りは変わります。内なる御霊によって祈るように変えられるのです(エペソ6:18)。

 第二の点は身を慎むという事です(v7)。身を慎むとはどんな事を言うのでしょうか?この言葉には、祈りの為に「正気を保つ」という意味があります。つまり、やりたい事をあえてしないで捨てるという姿なのです。ところが現代は身を慎むことが難しいです。誘惑が溢れています。そうした私たちに、イエスは〈誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。〉(マタイ26:41)と命じます。それは、誘惑に陥るとき祈れなくなるからなのです。では、イエスはどうだったでしょうか?誘惑に陥らず、身を慎んで祈りました。私たちはこのイエスに似る者(キリスト者)なのです。祈る為に身を慎む事をこのお方から教わるべきなのです。

 私たちはこの時代で祈る者でしょうか?心を整え、身を慎み、神に祈る生活を目指しましょう。     (文:実成)

《模範的な息子?》

2016-05-01

父は彼に言った。「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。(ルカ15:51)

 主イエスは、この兄の姿を通して、何を語ろうとしておられるのでしょうか。穿った見方が許されれば、これこそ悔い改めを知らない人の姿なのです。◇なぜ彼は悔い改めを知らないのでしょう。彼の生活が正しいからです。長年の間、父に仕え、戒めを破ったことは一度もない(29a)。これは偽りではないのでしょう。弟が帰って来たこの日も、彼は終日、言いつけられたとおり畑で仕事をしてきたのです(25)。模範的な生活ぶりです。◇しかし、彼の内面はどうだったのでしょう。父とのやり取りに、彼の内面に在るものが浮き彫りになっているではありませんか。先ず第一に、彼は父のすべてを受けているのに、それが当たり前、感謝も有難みもないのです。すべてを受けているのに<子やぎ一匹>に不満をぶっつけています(29)。恵みに当たり前になっていることは、何と高慢なことでしょう。しかし、何よりも私たちを引きつけるのはv28です。放蕩から立ち直り、ようやっと帰って来たたった一人の弟を祝福できないのです。これには色んな心理的な罪を見ることができるでしょうが、そのひとつが嫉妬でしょう。彼は自分が一番でないと気がすまないのです。この結果、彼は父の喜びを自分の喜びにすることができません。それどころか、かえって父に怒りを露わにしているのです。これはクリスチャンだったら、致命的でしょう。◇私たちはこれから後の二人の人生を想像して見なければなりません。弟は、聖霊の取り扱いを受けて、ますます人格的にきよめられ整えられていくでしょう。悔い改めを知っているからです。しかし兄は、このままでは一生いじけたままで人生を終わるでしょう。へたをすると、外側の正しい生活さえうしなうことになるのです。


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