浦和聖書バプテスト教会

6月, 2016年

《信じて従ってみる》

2016-06-26

 ・・・それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 (ヨハネ3:16b)

 救いの理解を知的同意だけに留め置いてはなりません。信じる者がすくわれる、これが神の約束だからです。◇信じることは私の問題であり、私だけの問題です。あの人(三人称)の問題でもなく、あなた(二人称)でもありません。私の救いは、私が信じることによってのみ成就するのです。これは当たり前のように思われますが、実際にはなかなか実行されていないのです。三人称や二人称の世界では大変よいことと認めても、一人称、即ち自分のこととなると途端に拒絶するということがあまりにも多いのです。なぜでしょう。一人称になると、物事はにわかに現実味を帯びて、自分が関わらざるを得ないからです。◇しかし物事は、本当のところ一人称で捉えなければ真の理解には到らないのです。特に、信仰による救いはその典型です。イエス・キリストの十字架の贖いは全人類の救いのためであるという知識はけっこう多くの人が持っていますが、ではその贖いに預かっているかとなると、そういう人は実に少ないのです。知っていることと、その知識が自分の人生になることとの間には実に遠い距離があるようです。そしてこの距離を頑なに保っている人は、いつまでも救いに預かることはないのです。◇この隔てをなくすには二つのことが必要です。一つは受け入れること、即ち一人称で信じることです。もう一つは信じたお方に従ってみることです。信じることと従うこととの間にも距離を作ってしまっている人がおられるのは、とても残念なことです。第二の隔てです。聖書が求める信仰には、この隔てがあってはならないのです。信じることは従うことです。真の信仰的体験は、この歩みを続ける中で必ず与えられるのです。

《確められた証言》

2016-06-19

そして彼らはその女に言った。「もう私たちは・・・  自分で聞いて・・・ほんとうに・・・知っているのです。」    (ヨハネ4:42)

 信仰が自分のものになるとはどういうことなのでしょうか。スカルの人々がこの女に語ったことばに、それがよく現されています。◇最初彼らは、この女の証言によってイエスを信じたのです(39)。これも確かな信仰であることは間違いありません。この女の素性を知っていた彼らは、この女の変化に驚かされたのです。彼女に何か途轍もないことが起こっている。彼女はもはや、自分の隠された恥ずかしい生活が明るみに出るのをまったく恐れていない。彼女が証言している人物とは、いったい何者なのだろう。救い主を知って嬉々として輝いている姿は、このように町の人々の心を動かしたのです。◇しかも、それだけで終わりませんでした(40)。人々は二日間もイエスをとどめたのです。そして、直に主イエスの御ことばを聞いたのです。動かされた心は、何らかの行動につながるものです。注目したいことは、すでに信じられていた証言(39)が、もう一度<イエスのことばによって信じられた>のです。間接的な信仰が直接的な信仰になった、と言ってよいでしょう。知識による信仰が、身をもって裏づけされた、と言ってもよいかも知れません。◇覚えたいことは、信仰はこのようにして、確かめられ、深められ、真実なものになっていくということです。人称を用いて表現すれば、証言はどんな証言でも三人称でしかありません。それに対して<自分で聞いて・・・ほんとうに・・・知っている> これは、一人称でなければ起こり得ないのです。おもしろいことに、女の証言による信仰は一旦否定されているではありませんか(42a)。この否定が起こり得るのは、より確かな、真実の信仰を摑み取ったからなのです。

《 人生の変革 ~イエス・キリストが私を変える~ 》

2016-06-12

彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。  (使徒9:5)

 パウロ(=サウロ)は、イエス・キリストと出会って生き方の変わった人です。彼は180度生まれ変わりました。では、イエスと出会うとはどういう事なのでしょうか。
 第一に、イエスが神であると知る事です。天からの光がパウロを照らした時(v3)、彼はv4〈サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。〉と声を聞きました。彼はすぐにv5〈主よ(先生)。あなたはどなたですか?〉と尋ねます。すると声の主が答えました。v5〈わたしは、あなたが迫害しているイエスである。〉この時、パウロは十字架で死んだあのイエスが今生きている事実を知りました。イエスが復活された神である事を知ったのです(Ⅰコリント15:3-9)。
 第二に、イエスに対して罪を犯した事を認めるという事です。パウロは復活の主と出会った時、自分の罪を示されました。不思議な事にキリスト者に対して犯した罪にも関わらず、v4〈なぜわたしを迫害するのか。〉v5〈「あなたが迫害しているイエスである。」〉と答えています。人に対して犯した罪は、イエスに対して犯した罪だと言うのです。これが示された時、彼はイエスに対して罪を犯した事を認めました。
 第三に、主イエスを信じて罪を悔い改めるという事です。  第一、第二の点だけでは、本当の意味でイエスに出会ったとは言えません。認罪によって打ちひしがれたパウロに、イエスはv6〈立ち上がって、町に入りなさい。〉と命じました。その時、彼は素直にv8〈地面から立ち上が〉りました。ここに彼の信仰があるのです。パウロは主のみことばを信じて立ち上がりました。そして、三日間かけて罪を悔い改めたのです。
 このように本当の意味でイエスに出会った者は、必ず新しく生まれ変わるのです(Ⅱコリント5:17)。  (文:実成)

《信仰を増したいという志向》

2016-06-05

 使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してください。」   (ルカ17:5,6)

 この好ましい使徒たちの願いに、主は何を答えておられるのでしょうか。<からし種ほどの信仰>もないと責めておられるのでしょうか。それとも、何か他の意味が込められているのでしょうか。◇この疑問を解く鍵はv7~10のたとえにあると考えねばなりません。このたとえは決してむずかしいことを伝えてはいません。主は、仕えることの大切さを説いておられるのです。特にv10では、ただ仕えるだけでなく、へりくだって仕えることを教えておられます。<なすべきことをしただけです。」>これはなかなか言えない言葉です。◇このようなたとえの意味を踏まえてv6に返ってみると、どうやら主は、使徒たちの信仰の足りなさを責めているのではないことが分かります。<からし種>ほどの小さな目に見えない信仰でも、それが本当にその人のものであれば、桑の木を海に移す力があると教えておられるのです。言うまでもなく、使徒たちにはすでにその信仰が与えられています。その意味では信仰を増し加えられる必要はないのです。そこでv7~10のたとえを用いての勧めなのです。即ち主イエスは、信仰が増し加えられることを求めるよりも、今与えられている信仰を愛兄姉に仕えるために活かして用いなさいと教えておられるのです。◇これは大切です。私たちは、信仰が増せば、今よりもっと大きなことができると考えてしまいます。言い換えれば、自分が今こんなところに停まってしまっているのは信仰が乏しいからだと思ってしまいます。恐らく使徒たちにもこの思いがあったのでしょう。これは間違いです。重要なことは、今与えられている信仰が<からし種>ほどに小さくとも、それを愛の実践に活かすことです。信仰が増すのは、信仰が活用されてはじめてなされるのです。


最近のメッセージ

年月別メッセージ

アクセスカウンター

  • 今日:173   昨日:125
  • Total:183785   Online User: 0