浦和聖書バプテスト教会

7月, 2016年

《死を待ち望む?》

2016-07-31

死を待ち望んでも、死は来ない。それを掘り求めても、隠された宝を掘り求めるのにすぎないとは。(ヨブ記3:21)

 ヨブ記が私たちを惹きつけて止まないのは、ヨブの生きた現実がどこかで私たちの現実と重なっているからではないでしょうか。◇実は、ヨブ記に登場する人物全員に共通した考えがあります。それは、神は正しい者には必ず報いてくださり、悪者は必ず滅ぼされるという考えです(神義論)。これは三人の友人は勿論、ヨブにも、途中で突然登場する若者エリフ(32章)にも共通しています。ですから、実は全員が同じ考えに立っているのです。そしてこれは、私たちの信仰でもあります。◇ところがヨブの人生は、これがまったくひっくり返ってしまったのです。彼は、神が誇るほど<潔白で正しく、神を恐れる>生き方を貫いていました(2:3)。それなのに、神は<何の理由もなしに>、彼の生きる意味、生きる喜びをすべて奪ってしまったのです。少なくとも、当のヨブにはそうとしか思えない現実が突如彼を襲ったのです。私たちは、ヨブが自分の死を願ったことばを、このような彼の現実を踏まえて捉えねばなりません。彼のことを誰が「信仰者としてふさわしくない」と非難できるでしょうか。すべての生きる意味を奪われた者は死ぬしかないのです。死ねることを望む以外にないのです。◇これが私たちの現実でもあることに、私たちは目を閉じてはなりません。私たちの記憶にまだ新しい3・11の巨大災害によって、どれだけ多くの人がヨブの現実に突き落とされたでしょうか。現場に佇んだある老人が「神も仏もねエ」とつぶやいたそうです。これは決して極端なことではありません。私たちのごく身近な現実でもあるのです。なぜ、苦しむ者に光が与えられ、心の痛んだ者にいのちが与えられるのでしょう。

《わざわいが神から来る?》

2016-07-17

私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」(ヨブ記2:10)

 ヨブを襲った災いは、ヨブの人生からすべての生きる意味、生きる喜びを奪い取るものでした。しかしヨブは、この災いを神から来ていると受けとめているのです。◇私たちは先ず、この災いを構造的な面から理解しておく必要があります。ヨブの試みが決ったのは天においてでした。二度ともサタンと神とのやり取りの中で、神がサタンに許したのです(1:6~12・2:1~6)。そして神の許しを得たサタンは、人を動かし、また自然の力を用いてヨブを試みています(1:13~19)。ですから、目に見える形で直接にヨブを襲ったのは、人であり自然災害なのです。◇そこで考えたいのです。神の存在を認めない人なら、これがすべてであり、その方がすっきりしていて分かりやすいでしょう。災いをもたらすのは、時に人であり、時に自然の猛威なのです。神を認める人であっても、人間と自然を神から切り離された自立的なものと考える人も同じです。あらゆる意味において、神は災いに関わっていないのです。しかしヨブはちがいます。死を望みたくなるような災いをも、神から来ていると捉えているのです。終章において神がヨブを正しいとされたひとつの理由をここに見なければなりません(42:7)。◇但し、注意しなければならない点があります。友人たちは共通して、ヨブを襲った災いはヨブの罪に対する神の怒りの現われと見ています。だからヨブに悔い改めを迫るのです。しかしヨブは潔白なのです(9:21・10:1~7)。最後まで、神がなぜ自分をこのような試みに遭わせるのか分からないのです。神から来ているのに、その意味が分からない。それでも神を信頼し続け、従い続ける信仰をヨブは貫いているのです。これこそ主なる神がサタンに誇りたかったことなのではないでしょうか(1:8)。

《「妬み」という罪》

2016-07-10

だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。(創世記4:5)

 この個所には、歴史上最初の殺人が書かれています。兄カインは弟アベルを殺害しました。実はこれは一つの罪が始まりで、起こってしまった悲劇なのです。その罪が妬みです。
 2人の兄弟は、全く違う仕事をしていました。カインは土地を耕し、アベルは羊を飼っていました(v2)。ある時、カインはv3〈地の作物から主へのささげ物を持ってき〉ました。ところが弟アベルは、v4〈彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た〉のです。彼は、信仰によって最上のものを神に献げました(ヘブル11:4)。神はこのアベルの信仰に目を留めてくださったのです。
しかし、カインには目を留めませんでした。こうした違いが生まれた時、カインは神に対して怒ります。それは、神に顔を伏せて隠すほどでした(v5)。身勝手なカインは、この怒りを弟のアベルに向けるのです。これが「妬み」という罪なのです。神はv7〈あなた(カイン)が正しく行なったのであれば、受け入れられる。〉と真実を伝えています。けれども、カインは「自分は間違っていない」と怒りを治めず、評価されたアベルを妬みました。恐ろしいことに、この妬みの罪は罪人には治める事はできません。実際カインも罪を治める事ができず、殺人まで犯しました。妬みとは、それほどしつこい罪なのです。
 ではどうしたら良いでしょうか?実は、この妬みから勝利させてくださるお方がいるのです。それが主イエス・キリストなのです。私たちは十字架のイエスに目を向ける時、それによって愛が分かります(ヨハネ3:16)。この十字架の愛は妬みさえも締め出し、妬む者から愛する者に造り変えてくださるのです。妬みの罪に支配されたら、すぐに主イエスの十字架を見上げましょう。                 (文:実成)

《ヨブ記が問うものは?》

2016-07-03

主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」 (ヨブ記1:21)

 ヨブの試みとは何なのか。少し冒険ですが、新しい視点で考えてみたいと思います。◇ヨブは最初の試練で家族全員と全財産を失います(1:13~19)。妻の冷たい仕打ち(2:9)は二回目の試練の後になりますが、これも家族のうちに含めてよいでしょう。その二回目の試練では、いのちの危険、即ち自分の死を予期せざるを得ない病に冒されてしまいます(2:4,5)。この二回の試練でヨブが神から奪われたものは、大別すれば家族と仕事(事業)と健康の三つと言えるでしょう。◇そこで改めて考えたいのは、この三つは、私たちに生きる意味を与えてくれる欠くことのできない要素であるということです。ですからヨブは、すべての生きる意味を奪い取られたのです。すべてです。三つのうち一つでも残っていれば、人は生きる希望と意味を見出し「生きよう!」とするでしょう。しかし全部が失われたら、はたして人は生き続けることができるのか。これがヨブ記が、そしてヨブの試練が私たちに問いかけていることではないでしょうか。これは物語の中だけのことではありません。私たちの目の届くところで、今自分の死を願いつつも何とかいのちをつないでいる人たちが実際におられるのです。しかし、いのちをつなぐだけの人生が、はたして「生きている」と言えるでしょうか。◇翻って私たちは、自分の人生を見つめ直さねばなりません。多少覚束ないところはあっても、ほとんどの人にこの三つの要素が具わっているのではないでしょうか。それなのに、ちょっとした不具合に遭遇するだけで、いとも簡単に神をのろうような気持ちに陥ってしまう、私たちは何様なのでしょう。1本のとうごまの木が奪われただけで死を願う預言者の姿に(ヨナ書4:6~8)自分が見えてくるではありませんか。


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